情報教育の「内容問題」

はじめに

 「情報の『光』と『影』」とは、よく使用されるフレーズである。この「影」が引き起こす事件や問題にすこぶる神経質なのが学校現場であり、文科省である。たしかに、マスメディアから垂れ流される情報量は、有益なものから不良文化財まで膨大すぎて、個人の掌握できるものではない。ネットも同断である。その中で流され、溺れ、児童生徒はいうまでもなく大人も、何を選択し自分の栄養とするべきか難しい環境におかれているのも事実である。情報機器との付き合いからいえば、テレビゲームに熱中し、朝から晩までPS3に向かい合うこともあろう。そのことが人間関係の希薄化を促し、「お手伝いする」生活体験、「兎追う」自然体験の不足を招来させたり、児童生徒の心身の健康に悪影響を与えたりすることも現実のものとなっている。

 小論では、平成8(1996)年の文科行政の認識を最初に紹介し、次に、年齢を問わず、コミュニケーションの困難性について述べる。さらに長崎県佐世保市女子児童殺害事件を振り返り、最近の情報教育に対する文科行政の姿勢、すなわち、「情報教育に係る学習活動の具体的展開について−ICT時代の子どもたちのために、すべての教科で情報教育を−」(報告)<なお、ICTとは、Information and Communication Technologyの略である>に触れつつ、まとめを述べたい。

1 第15期中教審における情報教育の捉え方

 情報化の「影」の部分の克服が学校教育の解決課題となって久しい。文科相の諮問機関である中教審の第15期答申において登場した以下のような情報の氾濫にまつわる危機への条件反射的記述は、わかるにはわかるのだが、10年前とはいえあまりに一般的過ぎて、具体的解決策に乏しい記述となっている。また、ちょっと長ったらしい名称だけれども、「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議」が、平成10年8月に、「情報化の進展に対応した教育環境の実現に向けて」を報告している。そこでも情報教育の担い手と情報教育制度構築の問題に論調が終始し、「これ」という具体的な解決方針がみえてこないのである。一体、「情報化の『影』の部分への対応」をワタクシたちはどう実行すればいいのだろうか。第15期中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(以下、「第15期答申」と略す)において、情報教育について直截的に記述している部分である「第3章 情報化と教育」を引用し、議論の端緒としよう。

 (以下、引用)情報化の進展は、今、新たな段階を迎えつつある(中略)。まず挙げられるのは、子供たちが様々な情報手段から入手する情報量の膨大さと内容の多様さである。もちろん個人差や学校段階によって違いはあろうが、量的には学校教育を通して提供される情報を凌駕し、またその内容は学校の授業で学ぶものよりも子供たちの興味や関心を大いに引きつけるものが少なくない。

 情報の豊富さは、プラスに生かせば子供たちの発想を膨らませ、日常生活の幅を広げ、豊かにするものであることは間違いない。しかし、情報は常に正しいものとは限らないし、また意義のあるものとも限らない。興味本位のものも相当に含まれていると考えた方がよい(中略)。このような溢れる情報の中で、子供たちが誤った情報や不要な情報に惑わされることなく、真に必要な情報を取捨選択し、自らの情報を発信し得る能力を身に付けることは、子供たちにとってこれからますます重要なこととなっていくと言わなければならない。

 次に、コンピュータの普及は、ソフトウェアの開発とあいまって、子供たちの個別的な学習をより可能とするとともに、多彩な教材を提供することなどによって、子供たちの学習の在り方により多くの可能性を与えることになる(中略)。こうしたコンピュータの活用は子供たちの学習の改善・充実に大いに資するものと考えられる。

 しかし、コンピュータ等を活用した個別学習の徹底やコンピュータを用いた疑似体験の増大は、ゲームソフトに熱中する子供について問題点として指摘されているような、例えば、教員と子供、あるいは子供同士の人間関係の希薄化や子供たちの実際の生活体験・自然体験の不足などを引き起こしかねないといった問題を内包していることを我々は見逃してはならない(中略)。

 我々が情報化の進展と教育について考えたポイントは二つである。

 一つは、情報化が進展するこれからの社会に生きていく子供たちに、どのような教育が必要かということであり、もう一つは、子供たちの教育の改善・充実のために、コンピュータや情報通信ネットワーク等の力をどのようにしたら生かしていくことができるか、どのように生かしていくべきかということである(以上、引用終わり)。

 以上のような認識の下、中教審メンバーは、4つの留意点を掲げ、情報教育の推進に期待を込めた。一つは、「初等中等教育においては、高度情報通信社会を生きる子供たちに、情報に埋没することなく、情報や情報機器を主体的に選択し、活用するとともに、情報を積極的に発信することができるようになるための基礎的な資質や能力、すなわち、『高度情報通信社会における情報リテラシー(情報活用能力)』の基礎的な資質や能力を育成していく必要があること」(第15期答申)である。これは、児童生徒の情報教育に関する資質能力の向上への期待であるから、審議会からの各学校への教育目標の指示、情報教育理念の提示である。と同時に、「情報リテラシー」育成を焦眉の急と捉えるこの審議会留意意思は、学習指導要領に明文化されるから、その妥当な教育内容と方法を各学校に選定させる強制力の根拠となった。

 高校学習指導要領(平成15年一部改正版)の「普通教育に関する各教科・情報A」から摘記すれば、「コンピュータや情報通信ネットワークなどの活用を通して、情報を適切に収集・処理・発信するための基礎的な知識と技能を習得させるとともに、情報を主体的に活用しようとする態度を育てる」、「問題解決を効果的に行うためには、目的に応じた解決手順の工夫とコンピュータや情報通信ネットワークなどの適切な活用が必要であることを理解させる」、「情報通信ネットワークやデータベースなどの活用を通して、必要とする情報を効率的に検索・収集する方法を習得させる/情報を効果的に発信したり、情報を共有したりするためには、情報の表し方に工夫や取決めが必要であることを理解させる/情報通信ネットワークやデータベースなどを利用した情報の収集・発信の際に起こり得る具体的な問題及びそれを解決したり回避したりする方法の理解を通して、情報社会で必要とされる心構えについて考えさせる」のようである。ところで教科「情報」が「普通教育」に範疇付けされているが、この区分に、この教科の「一般性」が認知されていることがわかる。すでに「情報」教育は最先端のものではないわけである。

 次に、「学校は、情報機器やネットワーク環境を整備し、これらの積極的な活用により、教育の質的な改善・充実を図っていく必要があること」(第15期答申)である。この指摘は、教育の外的事項の整備であり、制度論である。制度論であるかぎり、当然ながら財政的な裏付けを審議会ひいては文科省が官房に要求していくことになる。内容的にはどうなのか。現在、e-Japan重点計画(我が国が「2005年までに世界最先端のIT国家となる」ことを目標として、全閣僚を構成員に含む「高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部(IT戦略本部)」が作成してきた計画。平成13年以降平成16年まで、毎年、内容を拡充して作成された。「学校教育の情報化」についても盛り込まれている)が全国的に遂行されつつあり、現在進行形の制度的課題である。グラスルーツの運動を紹介する。

 この制度的課題について、ここ2ヶ月の様子を『毎日新聞』の伝えるところから抽出してみても、「パソコン使った新テストスタート TOEIC(12/8)・スプーンで飛行船制御 パソコン使わずに情報システム学ぶ(12/3)・シミュレーションゲーム、教育利用の可能性 JASAG(11/16)・小学生から大学生までが販売活動競う 「バーチャル・カンパニー トレードフェア」(11/15)・NHK教育番組を小中学校で利用 配信実験スタート (11/1)・IT時代の黒板とチョーク プレゼンソフト「ことだまレクチャー」(10/31)・小中一貫でIT基礎力を養う 寝屋川市立三井小、第十中(10/26)・「電子黒板で授業が変わる」 清水康敬・NIME理事長が初の編著本を出版(10/25)・ノートもパソコン ITで子供のつまづきを把握(10/23)小中高校生のロボットコンテスト 8チームが世界大会へ(10/2)」(日付はすべて2006年)といった具合であり、その充実がはかられているのが理解できよう。

 この制度的指針は、成人教育の分野でも形を変えて展開している。平成19年度を達成年度とし、平成17年から事業が開始された「e-ラーニングによる人材育成支援モデル事業」というのがある。これは、学習者の多様なニーズに対応したコンテンツの制作支援を行なうことによって、地域における生涯学習活動に活用できるコンテンツが充実し、ひいては地域の特色を活かした生涯学習機会が充実することを目的に事業化されたものである。フリーターやニートの就業支援のため、職能再学習の機会提供の意味も持っている。

 第3に、「情報機器やネットワーク環境の整備をはじめ、学校の施設・設備全体の高機能化・高度化を図り、学校自体を高度情報通信社会に対応する『新しい学校』にしていく必要があること」(第15期答申)である。これも上と同じく制度論であるが、例の「開かれた学校」というキャッチフレーズの国民的浸透に便乗し、「新しい学校」構築を宣伝したい思惑が読み取れる。だが、ここ10年、このフレーズが定着することはなかった。このフレーズが定着しなかったのは、ひとえに予算の問題であると解釈できる。もし、「各学校でPC1人1台」が本当の意味で実現していたとすれば、「開かれた学校」以上に「新しい学校」は話題になったであろう。

 現在でも「1人1台」なのであるが、それは、たとえばクラス編成が40人として、40人分PCが備品として一つの学校に供給されたことを指していっているのである。該当の授業を受けている間、1人に1台保証されていればいいわけで、他のクラスが国語や英語を受けているときにPCがなくともいいということである。すなわち、学校全体で5クラスでも、10クラスでも、ひとつのクラスで一斉に学習するための40台のPCが行き渡れば、「1人1台」サービス提供の学校であると数えられるのである。したがって批判的にいえば、中学校で考えて、全校生徒数分のPCつまり40人5クラス編成3学年なら、600台備えてから、はじめて「新しい学校」とのフレーズは使わなければならないのではなかろうか。

2 中教審が指摘した最後の「留意点」について−情報化の「影」の部分への対応−

 最後に、「情報化の進展については、様々な可能性を広げるという『光』の部分と同時に、人間関係の希薄化、生活体験・自然体験の不足の招来、心身の健康に対する様々な影響等の『影』の部分が指摘されている。教育は、これらの点を克服しつつ、何よりも心身ともに調和のとれた人間形成を目指して進められなければならないこと」(第15期答申)と述べられている。この点が小論の撃つべき核心であるが、第15期答申においてこの問題に投じる処方薬はあるのだろうか。残念ながら、「総合的な学習の時間」の設置をもってすべて解消するような立論、つまり新しい「生きる力」育成教育領域に丸投げしたといってよく、情報教育の本質に直接する回答を、ほぼ示していないのである。調和的な人間を育成することが解決策であるといくら主張しても、それはありとあらゆる教育問題にあてはまる解答であって、何も語っていないに等しいといわなければならない。

 情報化の「影」の部分に数えられる「症状」について端的にいえば、PCとにらめっこするあまり、人間どうしの生身のコミュニケーションが不得手になっている児童生徒をどうするか、という「病い」ということになる。電話線の先の世界と現実の世界がつながっているのにもかかわらず、それが違う世界のように感じてしまう心理状況。あるいはまた、児童生徒自身が作り上げたネット上の世界つまりサイトやブログが完結した自分だけの世界でないことに、逆に驚いてしまう現象。そうしてそこで些細な諍いが起こる。マナーの問題となる。ここに情報モラルの問題、つまり「心の教育」が関わってくるから、一層やっかいになっている。

 生身にせよ、ツールを通してにせよ、児童生徒どうしがコミュニケーションをはかることは、よき友達を作るというレベルでいっても、先生との信頼関係を築くにおいても重要である。また、それは、社会が情報化されようとされなかろうとあまり関係がなく、人間として自立していくかぎり避けられないもので、難しいものである。昔に比べて個々人の「傷つくのを怖がる」程度が高くなり、一層、他人との接触に錯乱するのをみると、そこまでの繊細さが人間付き合いに必要なのかと思う場面もあるが、それが情報化社会の責任とまではいえない。情報化社会だからこそ、フテブテしさが必要な場合もある。

 古くは長崎の殺傷事件なども、情報教育がうまくいっていないから発生したわけではないのである。「心の教育」が適切に実行されていないから事件が起こった、という事件発生の理由付けについても疑問が残る。もうちょっと違うところに原因があるのではないか。その原因は、単に第15期答申で指摘される様々な「体験不足」からくるものでもない。ギスギスし過ぎと心配されている現代の児童生徒の人間関係は、それを適切に調整する能力養成を喫緊の課題としており、後論するように、それは「ソフト面」なるものの自主形成にかかっていると考える。

3 「わかりあえる」ことの難しさ

 そもそも大人であっても、人と人とがコミュニケーションをとるのは、あるいは「理解しあえる」のは、困難なことなのである。さらに理解の前提となる大人の心も荒んでいる。大人が「心の教育」を完成させていない代表例としては、たとえば三菱自動車工業が、いわば「殺人車」を生産し続け、人命に関わる事故について隠語で表現していた去々年の話を挙げれば足りる。最終的に「わかりあえる」ことのない、切ない状態におかれた大人は、精神の救済を求めて現実世界では解消できず、究極的には宗教にたどり着くほかない。

 「理解しあえた、わかりあえた」状態は、大人どうしの生身のコミュニケーションでも難しいのに、「子ども世界」でどうして完全なそれが可能だろうか。「子ども世界」においても、利害関係は「子ども世界」なりに存在するのであるから、それを理解し合おうというのは、相当に骨が折れる。しかも、高度情報通信社会においては文章を媒介としてお互いを理解しようとするのだから。何が問題なのか。

 要するに、情報ツールを使ってコミュニケーションをとる場合、正確に自己の意志が第三者に伝わるかどうかが課題となる。生身のコンタクトならば、言葉は空中に消え、いい直しすることもできる。「いや、いまのは、そういう意味ちゃうねん。こうやねん」、である。だから、語彙力が少なく表現力が低くても、正確にイイタイコトが伝えられる。だが、メールや掲示板の書き込み、あるいはホームページ、ブログの文章などは、いったん書き込まれてしまえば、正確にその文意が理解されるかどうかは、書き手のしっかりとした文章表現力と、受け手の読解能力に委ねられる。しかも後者にかなり左右される。いまこうして書いているワタクシの文章も、果たして正確に読み手に伝わっているかどうか。非常にあやしい。すなわち、それだけワタクシが客観性を保って文章を書けているかどうか、そこが問題となると同時に、相手に委ねる覚悟を持たなければならないわけである。後者の突き放した姿勢が、表現面における「フテブテしさ」の意味するところである。

 読解能力の低さは現実問題である。ワタクシでいえば、いままで幾度となく「現代国語」の試験を受けてきたが、満足な点数をとったことはなかった。文章読解は1+1=2のように確実ではない。論説文など書き手が客観性や論理性を備えていくら書いたとしても、読み手は感性を照射して文章を読むケースが多い。大人の誤読は感性侵入の結果である場合が多い。

 大人は子どもに比べて相対的に文章を理解する能力を備えているが、子どもはその途上なのであり、一層「誤読」が起きる。ネット世界における事件、とりわけ児童生徒の運営するサイトにまつわる事件が多発するのは、だから、第1に、読解能力の限界、第2に、感性侵入の読み方、に原因があると分析できる。児童生徒は常に国語の試験で満点をとるわけでもなく、文章理解の背後に豊富な人生経験を持っているわけでもないからである。「書く」能力において未熟な児童生徒が、モノを書き、場合によってはサイトに発表し、「読む」能力において未熟な児童生徒がそれを誤読し、批判を浴びせる。親しい友達からのメールでも、全然意志が伝わらない。仕舞いには喧嘩になる、絶交になる、長崎のような悲しい事件になる。感受性が強くかつ感受性を磨く学齢期、下手をすれば児童生徒の方がむしろ様々な文章を読むにあたって感性侵入の恐れがあるやも知れない。そこには未成熟ゆえの突発的な決め付け発言も含まれる。

 だが、児童生徒はネット上で文章を書くなということを、ここで推奨しているのではない。年齢に関係なく表現の場を自由に持てる「美しい国」の現状を踏まえ、「文章を書くのは恥をかくことである」といったような感覚の育成と、「文章は武器になる」という慶応の校章のような意味とを「教育」するべきなのである。付け加えれば、「写真は多くを語る」ということを自覚させるべきなのである。その上で、情報ツールの活用能力育成を学校の教育課程に組み込み、学校の責任として果たすべきなのである。

 「書く」能力は、「読む」能力よりも格段に育成するのが困難な能力である。情報教育を云々する前に、「言葉の力」をはぐくまなければならないということを強調したい。それは語り表現するべき「内容」=「ソフト」=「コンテンツ」の貧困を解消する年齢に応じた学校全体における指導を必要とし、児童生徒にとっては表現するべき価値ある内容を探りあてるという、その時々の実存的な課題の達成なのである。「自らの情報を発信し得る能力を身に付けることは、子供たちにとってこれからますます重要なこととなっていくと言わなければならない」(第15期答申)と中教審が主張するのであれば、単にツールの問題として情報教育を捉えているだけでは、問題解決にならない。また、「文章を書くのは恥をかくことである」との立場は、情報モラルの伝達に、形式以上の「実存の問題性」を児童生徒に突きつけることになるであろう。

4 長崎県佐世保市女子児童殺害事件

 ここで議論を中断し、長崎の同級生殺人事件(平成16年6月)を再確認しておこう。長崎の事件について、週刊誌も含め報道各社は多彩な見解を示していた。週刊誌系は、かなりに不安をあおるような格好で野次馬根性的に記事化してもいた。新聞は努めて冷静に書いていたが、加害女子児童のサイトについて詳細に報告しているものもあった。果たしてこの事件は特殊な例ではなく、どこででも、誰にでも起こる事件なのであろうか。もしそうなら、情報教育や「心の教育」を何度も何度もやり直すほかないが、その手の対策をいくら学校が講じても、こう事件が頻発しては効果がないのかもしれないとワタクシは恐れている。そして、かなりの確率で加害者の家庭に事件の責任があるのであろう。この点、「教育や人格形成の最終責任は家庭にある」(第15期答申)と文部科学省はいい切っているが、情報教育に限定した場合、学校はどこまで手を打てば、その責任を果たしたことになるのであろうか。長崎事件をはじめとして、事はそんな生易しいものではないと思われる。

 加害女子児童と接見した弁護士の話を、新聞やテレビからつなぎ合わせて知るほかできないワタクシであるが、加害女子児童の性行はワタクシの想像を絶するものであった。実際、鑑定捜査において付添人弁護士が一度取り下げられた精神鑑定を請求し直すなど、「真実」を知る努力が重ねられるように、全貌解明までは今でも程遠い。被害者の出版物いわゆる手記に目を通しても、事件の本質的解決はまだ先のように感ぜられる。加害女子児童が運営していたサイトには、「紫魔術」のコーナーがあったり、自家版「バトル・ロワイヤル」があったり、かなりの「偏向」を感じさせるものがある。彼女のダークサイドが表現され切っているサイトなのであろう。そこまで彼女を追い込んだのは何だったのか。あるいは、彼女が「奇妙な」独自世界を持つに至る過程に、何があったのだろうか。

 1つはやはり、彼女を巡る社会的環境なかでも家庭環境であろう。保護者の、とりわけ母親との精神的な分離が事件の引き金になっていたのは、新聞各紙が指摘していたところである。そのトリガーに、彼女の痩身願望を切って捨てるような同級生の「悪口」が書き込まれ、彼女の精神に「圧力」をかけたのであろうか。本当にそのことだけだったのであろうか。加害女子児童本人の口から将来何が語られるのか、ロバの耳を覆っていたい心境である。

 さて、事件に関連し、心配なことが2つある。彼女の所属していた小6クラスの担任の先生、それに、被害者である御手洗さんの所属していた1年前の小5クラスの担任の先生についてである。長期休暇をとっていることからわかるように、先生方にもかなりの動揺があったことは容易に想像できよう。「教室に足が向かない」心情は理解できるが、事件発生原因のすべてがすべて先生方の責任ではない。あまりにも、ご自身を追い込まれないようにしていただきたい。長崎県緊急対策会議は県内の校長を集めディスカッションしているようである。決して後手後手の対策ばかり長崎はやってきたわけではない。5年前の類似事件以来相当に苦心し、「心の教育」を実践されてきたはずである。さらなる効果ある手立てが生まれるよう期待する。

 もう1つは、『バトル・ロワイヤル』についてである。確かに今回の事件は、殺し合いの描写がふんだんにある小説が引き金であったかもしれない。しかし、だからといって、『バトル・ロワイヤル』の作者をつるし上げたり、出版禁止したり、同様の作品を書くことを規制したりしてはならない。そんなことをすれば、文芸の発達は停止する。いわゆるエログロナンセンスの世界であろうと、それを規制することから独裁がはじまるということが歴史の教訓であることを、ワタクシたちはよく知っている。要は、受け手の問題といえる。

 なお、この事件については、『長崎新聞』の敏腕記者たちが詳細にレポートをまとめ、かつ、識者がコメントを残しているので、一読されたい。「大久保小の男性教師は『以前は学級全体を見ることに重点を置いていたが、事件を機に一人一人をもっと見なければと考え直した』と話す。事件では、学校で問題行動を見せない子が暴走した。だから『子どもの家庭での様子を知りたい』『子どもには学校では見せない姿があるのでは』と考えるようになった。事件の教訓を生かすには―。迷いと模索が続く」(『長崎新聞』2006年5月29日付)。「―」の中身を言葉にしなければならない責任が、ワタクシたちの双肩に重くのしかかっている。

5 課題としての「内容問題」

 結局、「言葉の力」は「朝の読書運動」も含め国語系が主に育成担当するので、情報教育は、情報ツールの活用能力の育成と情報モラルの自覚との2つを内容とするのかもしれない。情報教育は、いってみれば「内容」ではなく「形式」の学びである。だから「内容」=「ソフト面」なり、主体的情報選択能力なりを養うことは、各教科や総合学習が担当することとなるのではなかろうか。とりわけ、「溢れる情報の中で、子供たちが誤った情報や不要な情報に惑わされることなく、真に必要な情報を取捨選択し、自らの情報を発信し得る能力を身に付けること」(第15期答申)が児童生徒に要請されるとき、大切なのは児童生徒が感性を磨くこと以外にない。どのような情報を選択するかは、児童生徒個々の興味、関心、感性がもっとも大きく左右するからである。そうした「情報選択個性」の育成は、学校教育では限界があるように思われてならない。何を選択するかは、児童生徒の嗜好だし、選択内容を学校が強制することは、ひょっとすれば「人権侵害事件」に発展するからである。事は、教育内容の決定権の問題にもつながるナーヴァスなイシューとなる。

 それゆえ、教育の情報化は、教育のIT活用を意味し、ハード面操作のデジタルディバイドをなくすところに、究極目標があるといわなければならない。機器を操れる能力を平等に身につけるようカリキュラムは編成されるべきであり、そうした教育が高校段階ならば、教科「情報」で保障されるべきである。

 しかし、何度も指摘するように「何を伝えるのか」や「伝えるどのような内容をもつか」は、個人に帰するワケであって、それを持たない限り、情報機器を生かした指導は難しい。初等中等教育は、「情報教育だ〜、情報教育だ〜」とシリを叩かれすぎて、こうした「内容」問題を置き去りにしている観がある。日本がハードに強くソフトに弱いと評価されるのも、こうしたところに最初の躓きがあるのではないか。ほとんどあらゆる産業部門で日本がソフト面を西洋から換骨奪胎的に取り入れ近代化してきたのも、手っ取り早いからとの理由からだけではなく、日本人の精神構造の根の部分に関わってのことと思われるのである。なぜ、ソフトを供給するアメリカの会社などをいまさら買収しなければならないのか、自力で何か価値を創造する困難に向き合うのを面倒がる姿勢が、現代日本人にうかがわれるというのはいい過ぎだろうか。

6 「初等中等教育における教育の情報化に関する検討会」の認識

 ここで、今年の夏に報告された文科省の文書を検討し、コメントしよう。この10年の間に、文科行政の情報教育認識が変化したのか、「内容」問題がきちんと議論されているのかどうか検討したいからである。「初等中等教育における教育の情報化に関する検討会」が、平成18年8月、「情報教育に係る学習活動の具体的展開について−ICT時代の子どもたちのために、すべての教科で情報教育を−」(以下、「情報化報告」と略す)を広報した。

 そこではまず、「各教科等において、情報機器(IT)を活用しさえすれば情報教育を行った、ということにはならない」ことを強調する。この指摘は正しく、情報関連の時間が児童生徒にとってみずから手を動かし操作し、楽しく過ごせる授業時間であるため、それをみた教員は「主体的に学習しているなあ」と勘違いして、PCをいじれば学習だと錯覚してしまう。現場批判の言葉として「情報化報告」がこういうのは理解できるが、しかし、教員の立場からすれば、厳しすぎる指摘でもある。

 次に、「情報教育に位置付けられるためには、実際に指導を行う教員が、IT活用が子どもたちの情報活用能力の育成に、どのように資するかを理解した上で、指導することが必要」とする。これは教員のIT指導力を育成することによって解消されるのだが、「IT新改革戦略」がそれを実現しようと躍起になっている。だが、その「指導力」の基準が明確ではなく、困っている様子である。「教員のICT(情報コミュニケーション技術)指導力の基準の具体化・明確化に関する検討会」(同検討会の第1回開催は2006年11月5日)が開催される所以である。

 『毎日新聞』(2006年10月6日付)の伝える文科省調査結果では、「2006年3月時点で、ITを使って指導できる教員の割合は全国平均が約77%。最下位の東京都を含め、5都道県で6割台にとどまっている」ようである。文科省の調査は「『なんらかの手段で少しでもコンピューターなどを活用した授業ができる』かどうかを聞いており、実際に行っているかどうかは問わない。このため、ITを活用した指導ができるとした教員の中でも、ソフトウェアを使うだけといった初歩的な段階から、教科内容に応じて必要な教材や素材を自作したり、効果的な提示ができるといった高度な段階までさまざま」(『同上』)と文科省自身が「調査」基準の曖昧さを反省している。

 それゆえ、「これまでにも『指導場面』についての調査などが行われてきた。『IT新戦略』の重点計画では、IT指導力向上の具体的な施策として、今年度中に『教員のIT活用指導力の基準の具体化を計り、到達目標を明確にする』」(『同上』)といわざるをえなかった。教員の指導力つまり資質能力の問題は、たしかに情報教育体制整備を語る上で避けては通れないが、児童生徒と教員との間には越えられない世代格差があるので、「興味、関心、感性」についても、ことごとく違いが出来する。倫理にせよ、道徳にせよ、人生観にずいぶんな開きがあるので、「内容」問題に直截する「指導力」の向上は、いかに児童生徒の心情に近づけるかということにかかってくる。それは一人ひとりの情報教育的ニーズに応じた指導を求めるとペーパー通達するにとどまらざるを得ない。結局は、機器操作の認定証の発行で終了する類のものでシャンシャンとなり、さほど意味ある情報教育上の課題解決策とはならない。

 さて、文科行政の情報教育認識が変化したのか、「内容」問題がきちんと議論されているのかどうかであるが、どうも十年一日のごときである。「内容」問題には全く触れていない、また、触れられない、といっていい。同検討会が、情報活用の実践力、情報の科学的な理解、情報社会に参画する態度からなる「情報活用能力」を児童生徒が身に付け、情報社会に対応できる力を備えていく必要性を語るのは、21世紀答申を発展させたものであるとは到底いえない。しかも、学習指導要領における情報教育の位置付け問題にすり替えたり、情報教育に係る具体的な学習活動の現場周知不徹底のせいにしたりしている。

 そうしたことが問題ではないだろう。結局制度はそれを運用する人間にかかっているのであるから、学習指導要領でどう位置付けようと、未履修問題よろしく実施しなければなんらの改善にも寄与しない。大上段に立った情報教育論をお役所的に実施しようとする中央と、情報教育だけにすべての時間を割くことはできない現場とが、中間存在的教委を跨いで意思疎通できるかどうかも、現状では絵に描いた餅である。すぐ下に引用する「情報化報告」の一部は、「総論的な意見」のオンパレードで、現場をみる姿勢に乏しいといえるからである。

 (以下、引用)情報教育の内容については、「情報手段の活用に偏り過ぎるべきではない」、「情報を適切に活用して合理的判断や創造的思考、表現・コミュニケーションなどに役立てる力、よりベーシックな情報活用能力の育成が必要である」、「不易の内容を明確化する」といった意見に加え、「情報科学、情報工学、情報システム学に関連する科学・技術的内容が乏しい」といった総論的な意見があった。

 また、具体的な意見としては、情報活用能力の3観点を理念のままで終わらせないという考え方の下、3観点それぞれについての主な意見として、以下のようなものが示された。

 情報活用の実践力・・・情報の収集、判断、発信等の一連の情報伝達過程について指導することを前提とした上で、その手段としてコンピュータを活用する能力の育成を重点に検討すべきである。

 情報の科学的な理解・・・一定の基礎学力が前提となるが、自らの情報活用を評価・改善するために不可欠である。人間が判断を誤る原因について、科学的な観点から考える教育が重要で、科学的センスや学習意欲の向上にも繋がる。

 情報社会に参画する態度・・・情報モラル、情報化の影の部分への対応を充実すべきである。マスメディアのメッセージを鵜呑みにしないなど、情報に対し、冷静で合理的な判断ができる力が必要である。情報モラル教育には、「情報倫理教育」と「情報安全教育」がある(以上、引用終わり)。

 ここで評価できるのは、どのような意味でいっているのか背景を説明する必要が同検討会にはあるけれども、「情報手段の活用に偏り過ぎるべきではない」との文言があることである。これが「内容」問題をどうすべきか意図する文言であれば、第15期答申を上回る提言であるといえる。だが、「情報化報告」全体では、そこまで突っ込んだ議論はない。「情報の収集、判断、発信等の一連の情報伝達過程」に「内容」問題が潜んでいるのを知っていながら、情報規制に絡むので、検討会は腰が引け、発言できないでいる様相である。ただ、果たして、そこまで踏み込んだ検討会提言があったとして、そしてその提言がすべて実現したとして、長崎事件のような悲惨な事件が皆無になるのだろうかとの疑問は残る。

7 国民総作家時代と実存発見

 児童生徒が語るべき内容を自己の生活圏から紡ぎ出そうとすれば、当然、友人関係に触れることになるのであって、その時に、表現力の有無が友愛を深めることにもなり、感情のすれ違いを導き出すようにもなる。マクロにいえば、メディアの受信だけならまだしも、インタラクティブな世界では、だれでも発信源になれるところに「すれ違い」が発生する。情報発信が誰にでも可能となったIT社会は、子どもたちも含め、「1億総作家」状態を現出させている。そこでは、表現の自由を謳歌できると同時に、シビアに責任を問われるし、場合によっては「発信内容」が、写真も含めて血祭りにされることもある。著作権の問題も看過できない。そうした意味で、IT社会は非常に恐い社会でもある。

 匿名性、誹謗中傷、ドロドロした人間性、そうした人間の思念が、ネット上には赤裸々にあらわれている。混浴状態である。底のない桶に、赤や青や黒の液体が混ざり、何とも形容しがたい色になっている。数枚の絵画を描き切ったあとの絵筆洗いのコップのようなものである。このように考えてくれば、情報化社会はマイナス面の方がひょっとすれば強いのかもしれない。無意図的な教育としてインターネットは期待されていたが、そんな生易しいモノではない。かといって、そうした社会がすでに所与であるかぎり、子どもたちは逃げることができない。これは、リヴァイアサンの発見以来の相当な化け物が出現したというほかないのだろう。インターネットが第○の権力と評価される所以であり、体制が恐れる所以でもある。だが、絵筆洗いのコップが汚いということは、素晴らしい絵が完成したということを同時に意味する。主体的な情報選択能力が養われた先に、輝く成果が産出されることも、IT社会のリアルである。「情報選択個性」が、クリエイターを生むのである。

 ところで小学生の発達段階に応じる情報規制策は制度上できたとして、その制度的規制は必ずザル規制になる。情報社会の発展は、ウィニーの件をみても即日後継者があらわれているように、とどまるところがない(ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」を開発し、ゲームや映画ソフトの違法コピーを容易にしたとして、著作権法違反ほう助の罪に問われ、懲役1年を求刑された元東大助手、金子勇被告の判決は、12月13日、京都地裁〔氷室真裁判長〕で言い渡された。ファイル交換ソフト開発は著作権法違反ほう助。罰金150万円。金子氏は即日控訴)。小学生でも、大人顔負けの知識と技術と「裏」を発見している場合もよくあるからである。年齢的な規制はかけられないし、かけても抜け道を見出すのが、「興味・関心」を持つものの本能である。だからこそ、そうした規制に関しても、家庭の教育力に頼るほかないと文科省はいっているのではなかろうか。

 情報の「影」の部分の克服は、すでに高度情報社会の坩堝にある児童生徒にとっては極めて難しい主体的な克服課題であるというほかない。なぜなら、よくも悪くもこれまでは、与えられた課題、たとえば各教科の問題集を、自力で解答すればよかったし、総合的な学習の時間の「問題解決学習」も、教員の想定内の土俵で遊んでいれば済んでいたのに対し、学校世界と情報社会がクロスするつまり強制教育と無意図的教育がかなりの程度オーバーラップする教育空間では、自分でメスも鉗子も用意して、自己の実存と言葉の真の意味で向き合い、途方もない「問題解決」という手術に挑まなければならなくなったからである。高度情報社会以前の社会、たとえばケータイのない社会に生きてきた経験を持つワタクシたち大人の想像外の苦しみを、あるいは児童生徒は、すでに背負っているといえよう。

(Dec.13,2006 稿成る)

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