「国民経済」復活への期待

1.資本主義成立の議論

  ウェーバーにしたがい、大雑把にいえば、プロテスタンティズムとりわけピューリタニズムによって世紀をかけて準備された敬虔な精神態度が、西洋の資本主義成立の思想的根拠−大塚久雄氏の表現によれば「心理的機動力」−であるようである(註1)。なるほど教会のラビやらなにやらの、たとえ「権威」であろうとも、他者によって噛み砕かれた説教を金科玉条にせず、自分ひとりの心の中に神を降臨させて宿しつづける新しい信仰形態は、徹底した個人主義と精神的に厳格な規律を生み育んだのであろう。厳格な規律を自己設定して生活を整え、自律した信仰が世俗内禁欲に転化するとの思想的な「読み」は、いまでも説得力がある。

 この「読み」は、ウエーバーの持つ鋭い人間観の分析と人間への愛が導いた考察なのであろうか。ウェーバーの研究視角が、「資本主義がどこでどのように発生したのか」におかれているのはわかるし、センチメンタリズムが社会科学の客観的分析に不必要だとしても、最終的には搾取される側の悲惨な人生に対する優しい眼差しを、ウェーバーは持ちあわせていなかったのではないかとも思われるのである。それは彼の生きた時代とも関連するのかもしれない。ウェーバーが資本主義の終末をどのように考えていたのか知る由もないが、是非その予想をたずねてみたいものである。

 ルター(註2)の宗教改革の検討からはじまってピューリタンの精神を考察し、資本主義のエートスを解明しようとした『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が説く資本主義の成立を承認したとしよう。一足飛びではあるが、その20世紀における成長の過程においては、もともとは一個の労働者であったはずの資本家から、宗教性はいうまでもなく、世俗化した禁欲に基づく倹約精神と職業従事倫理をも棒引きした。

 西洋、といっても、ヨーロッパの資本主義さらにはイギリスの産業革命(世界の工場!)で誕生した資本主義が世界を席巻していくわけで、それがまず北米に移植されてから、別次元の資本主義を生んだと考える。その展開は多民族国家の経済活動が調味料となって19世紀段階の資本主義に変化をもたらし、20世紀に爛熟した消費社会を産み落とした。最終的には20世紀と21世紀の交わりあたりに、金融工学の助けを借りて「怪物」資本主義としてソロスのような利ザヤを稼ぐ経済活動を生んだ。日本には、資本主義市場の波が西から東からクリープした。そして浦賀に伝播し世界市場の形成が完了する(マルクス)。これは19世紀、嘉永・安政の頃である。日本型資本主義がどれほど西洋発の資本主義類型と異なるのかを探るのは、八百万の神を認める民族性が資本主義にどのように変質を与えたのかを探索しなければならず、ここでは触れられないし、資本主義出発期の西洋のエートスを確認すれば当面の議論に問題はないと考える。

 現在では、世俗内禁欲たる倹約は、経済的貧困層のみが首に飾るロザリオとなった。資本主義社会のなれの果てである。そして、現代社会における超貧困層の出現の原因として、産業経営型資本主義から金融資本主義への変貌が、なれの果てたる事態を引き起こしたと説明される。送りバントは失敗し、ダブルプレーを喫したといえる。

2.資本主義と戦争

 いま、最大の社会的課題が経済問題の解決にあり、富の産出と同時に雇用の創出が企業家の果たしうる最もスバラシイ社会貢献であるにもかかわらず、世界的金融危機が富の産出を減少させ、雇用をナロー化している。とりわけ雇用の創出は、資本家しか実行できないところの、そして、資本家が人びとから尊敬されるところの、もっとも大きな社会的価値である。雇用の崩壊はそれゆえに資本家批判の最大の要因となるのは論を俟たない。現実は派遣村の存在がよくも悪くも示しているが、資本主義社会の破綻がすぐそこに迫っているように思われる昨今であるのに、思想界や哲学の分野ではそれに変わるべき社会思想も主唱されないばかりか、解決の予言さえ提示できない政治の貧困状況にある。雇用形態の正常化が期待されるにもかかわらず、まだ福岡出身の現首相は常用雇用の望ましさを認めつつも、「登録型派遣の原則禁止を求める野党側の主張に関しては『直接雇用より派遣雇用を好む人もおり、禁止はかえって労働者の不利益になる』と慎重姿勢を示し」(『日経新聞』2009年1月31日付)ているのである。

 残念ではあるが、こうした社会的、政治的情勢に対し、優しい眼差しを無理やり向けても解決策にはならない。たとえば、生活保護は、所詮、生活保護でしかなく、労働で得た対価とはまったく違う。そこには人間としての喜びの感情である「汗して働いて得たもの」の感覚がないからである。では、解決策は、なんなのだろうか。ひょっとして、戦争なのだろうか。近代日本の発展は、それを示している。

 近代日本は、短距離走のように資本の本源的蓄積過程=松方デフレを経て、独占資本主義へと突き進んできた。110mハードルと同様、いくつものハードルを蹴り倒して進んできた。その一つひとつのハードルは戦争を意味し、「2億両」然り、「天佑」然り、戦勝してハードルを乗り越えるごとに日本の資本主義は焼け太り的発展をしてきた。軍国多事は経済発展の必要条件であった。近代史と現代史を貫徹して、もう少し資本主義の成長過程を長期的視点から捉えれば、敗戦であってもその後に大英帝国の経済成長を凌ぐスコアをたたき出した事実は、成長のためには多少の犠牲をいとわない冷徹な倫理観を容認したとみなすことができよう。これはすでに倫理と呼ぶよりもむしろ背徳である。こうした近現代の焼け太りの仕方は、世界が羨み日本型経済発展がアジアを中心とする第3世界のモデルにもなるべくもてはやされたのである。90年代には、儒教倫理と資本主義の精神が関数関係にあるとの主張もチラホラみられた(もちろんこの考え方にはウェーバーは真っ向から否定するだろう)。

 すでに資本家は敬虔を求めない。敬虔と禁欲は職務専念義務を用意したが(天職!)、堕落をもその胎内に宿していたのであり、それが孵化した。まさに、エイリアンであろう。コンプライアンスとはリップサーヴィスであって、背徳の裏面に過ぎない。背徳こそ、資本主義が最終的に宗教性から学んだ精神なのである。背徳の最大の表現が戦争として遂行される。

 ものっそい破滅的前提ではあるが、日本が成長するには戦争を必要としているとの仮説である。成長への突破口が戦争というのは、なんとも悲しいことである。『希望は戦争』(註3)との若者の議論が言論界に颯爽と登場したつい最近と不況突入の時期とが符合する。戦争を望む所以はこの若者の主観であり、ここで述べようとする根拠と違うが、この符号はひょっとすれば偶然でないのかもしれない。そこでは、戦死を持って自己存在証明を国家に期待し、いまの目にみえないがしかし確実に存在する経済的階級社会を暴力的に一掃する願望を持つ。だが国民の間にその願望が広がり、運悪くそのガスに着火する為政者あるいはクーデター首謀者が登場すれば、事は成立する。肩書きがなくなってチマチマ講演をしているけれども、田母神氏がその由々しき未遂事例であってよかったし、それを側面支援する西村眞吾のメディア露出度が低下あるいはほぼ無視されてよかった。こうした正常な判断がくだされる現代社会には、まだしも救いがあると評価するべきである。だが、社会に現実に不平不満があるからこそ、それが言葉となってこうした『希望は戦争』なる議論が言論界で無視されることなく活字化するのである。

 戦争は、悲しいかな、人を整理する、人間を抹殺し、排除する。労働力の余剰は人を整理すればなくなる。そうだ、両者は握手しやすい。この握手が意味するところからすれば、人間の数が多いと資本主義は成立しないというわけだろうか。明治でいえば3千万人の人口が世界的経済競争に負けないよう一等国入りをめざして努力を重ねた。現代の1億2700万人だが、成熟した経済社会にあっては、人間の数自体が多いのか。飛躍的なことをいえば、中国が資本主義化しないのは人間の数が多いからではないか。成長の果実としてパイが大きくならないのであれば、それを平等に分配することも難しくなる。直径10cmのパイを分け合っても、「パン2枚と魚3匹」(数字が逆だったか?)の比喩ではないのだから、腹いっぱいにならない。直径xxxkmのパイが必要なのである。その何分の一を受け取るかの最低が、「文化的に最低限度の生活」を営むことのできる分量である。神の愛ある平等では、ハライッパイにはならない。

3.断末魔の声

 上述のような近代以降今世紀にいたる戦争をバネにした焼け太り的経済成長は、ジョーカーを引き当てることになった。そのジョーカーが、新自由主義という「支配原理」であって、労働規制の緩和ゆえに多数生み出された派遣労働という現代の口入れ稼業下の「奴隷的」就業体制を動力源としてしまった。派遣労働に対する庶民の感情は2つに分かれる。そのひとつは、派遣という不安定な就業を選んで苦しむのは自己の責任であるとの立場であり、これはおそらく「自己責任論」と呼ばれる立場であろう。もうひとつは、派遣の道を選択したのは、たとえば就職氷河期にぶちあたりやむなく就業せざるを得なかったというような消極的選択であり、この消極的選択が就業循環となってスキル修練を得ることなく時間を消費してしまい、いまにいたっているのだろうと推測する立場である。これはあるいは「社会責任論」と説明される。ここに、勝ち組・負け組理論がおおっている。

 いずれの感情を持とうとも、客観的には、労働力を低価格に平準化するのが、派遣業者の役割なのである。人間の価値をとことんまで切り詰める作業なのである。その結末として以下の3つの記事をみよ。

 ひとつの記事の見出しは、「派遣解雇の27歳男性、電車に飛び込み死亡」である(『朝日新聞』2009年1月30日付)である。「埼玉県蓮田市のJR蓮田駅で29日午前9時25分すぎ、昨年12月20日に栃木県小山市の人材派遣会社を解雇された住居不定の無職男性(27)が宇都宮線の特急列車にはねられ、死亡した。岩槻署によると、男性は死亡する前に親族に『これまでありがとう』と死をほのめかすような電子メールを送っており、飛び込み自殺だったとみている。同署の発表によると、ホームには男性のバッグ1個が置かれていた。昨年末に解雇された後、職はなく、住居も定まっていなかったらしい。亡くなったときの所持金は2200円だったという」。なんとも切ない。この小さな記事が人目にしっかり触れるようになり、議論されるところにインターネットの有効性を確認することができる。「これまでありがとう」と認める若き成人男性の心中を想像することができる淵にワタクシたちは立ちつくしている。

 もうひとつは、こうである。『産経新聞』の1月31日付の記事であるが、「人生が嫌に…」と40歳の男性が、東京駅で自殺未遂している。「30日午後6時15分ごろ、東京都千代田区丸の内のJR東京駅日本橋口の階段で、『ナイフが首に刺さった男性がいる』と通行人から119番通報があった。男性は病院に搬送され、意識はあるという。警視庁丸の内署によると、所持品などから男性は名古屋市の40歳とみられ、『自分で刺した。人生が嫌になった』と話している。調べでは、男性は1階と2階の間の階段の踊り場に倒れており、近くに血の付いた包丁が落ちていた」。ナイフで自分の首を刺すとは。40歳はまだ、人生を嫌になる季節ではない。この現場をみて通報した人間もまた同じ人間なのであり、あるいは鏡をみている気持ちだったかもしれない。通報した人間は、ナイフとは違った鋭利な刃物たる社会の厳しさと残酷さを血を通してつきつけられている。みえないナイフがみえた瞬間であろう。

 最後の記事は、2月3日付の『毎日新聞』である。「『派遣切りで強盗しようと』包丁隠し持ち逮捕」との見出しである。かいつまんで紹介すれば、「北九州市小倉南区の公衆電話から男の声で『派遣切りに遭い、強盗しようと思ったが怖くなって通報した。包丁を持っている』と110番があった」のだから、思いとどまってよかった。「同署(福岡県警小倉南署)によると、白樫容疑者は昨年3月から三重県内の大手精密機械製造会社で派遣社員として勤務したと供述。派遣期間は昨年12月末までだったが、10月末に契約を解除されたという。福岡県内に実家があり、その後、フェリーで北九州市に渡った。JR小倉駅周辺で路上生活し、おにぎりやパン1個で一日の飢えをしのいだこともあったという。派遣切りされた際、所持金は7万円あったが、窃盗の被害に遭ったといい、逮捕時は10円玉と1円玉の計11円だった」。

 警察での調べに対して、「『包丁はJR門司駅近くのごみ集積所で拾った。警察に捕まれば食事や寝場所、入浴に困らないだろうと思った』」と供述しているのである。11円を持って、故郷に最後の望みを託す旅程は、半生を振り返る旅路であると同時に、この現代社会に対する憤懣と「なぜオレが」の反芻で時間が消費されたであろう。「これまでありがとう」と「嫌になった」では、人生の最後に吐く言葉としてずいぶん異なる。包丁を拾って空腹を根拠に強盗の寸前までいった心境は、いかばかりか。

4.等式

 こうした3つの言葉が吐かれる状態は、戦争状態ではないのか。
 上述で、「破滅的前提」と書いたけれども、これは戦争ではないのか。
 社会から人間が消滅していっている。
 平和のうちに、「平凡だけど、誰かを愛し、普通の暮らし、してたでしょうか」(註4)ではまったくない。
 領土拡張ほか多様な欲望充足のための戦争と、上に確認した経済戦争と、どこがどうちがうのか。
 結果は同じではないのか。「死」である。
 背徳の最大の表現としての戦争が遂行されているではないか。
 時の流れに身を任せられない。

5.なれの果ての先へ

 経済社会において余剰人員が過多である状態があれば、切るほかないのが冷徹な資本の論理である。成長もなく、現状維持で経済のパイが一定であれば、派遣労働者を切らなければなんともならない。背徳は人を戦争状態に追い込むのであり、それが承認されている。しかもこうした承認は、労働者だけに向けられたものではない。いうまでもなく後期高齢者医療制度は、現代の姥捨政策である。富を生まず消費もあまりしないといわれる高齢者を彼岸に追いやるわけである。こうすればパイがデカくなる。

 いまさら「反新自由主義」を主張してなんになる。その主導者が反省文を書いて儲けている。なんだこれは。ツケがめぐってきただけである。さらには、底の抜けた桶のように、社会保障制度は欺瞞と疑惑にまみれている。『日本之下層社会』や『女工哀史』の著者が描き出すいわばヤスリで削られていくような労働環境と変わりない現実が、暗雲に包まれた現代の労働者の住む気候である。この厳しい環境は、ツンドラ地帯と同断である。経済的に、との限定の元で考えるとして、「万人平等という状態になったら、幸福な人間は一人もいないであろうから、それに比べれば、ある人々が不幸である方がよい」というある思想家の言葉が正解だとすれば、派遣労働形態は正しい形態であるものの、これでは21世紀は、不幸な先行きを暗示されているといえよう。

 では資本家から倫理を取り戻し、労働者が正常な環境つまり「平凡だけど」云々を奪回する手段と方法はあるのだろうか。新しい雇用の創出を政府の公共政策に任せていいのだろうか。グリーンニューディールといった心地よい響きの公共政策に、われわれは酔っていいのだろうか。グリーンの範疇に介護産業をいれていいかどうかわからないが、環境や介護といった産業に育てにくかった分野を活性化させる政策は、それが持つ言葉の魔力によって人びとの心をくすぐるし、反論を許さない倫理を備えているように感ぜられる。自然と人間の豊かな関係性を取り戻すようにも聞こえるグリーンニューディール。しかし月給15万円もいかない介護サービスにどれだけの雇用が集まると政府はいうまでもなく、民主党の若き議員たちは考えているのであろうか。経団連所属企業に公的資金提供するくらいならば、こちらに供与した方が理屈は通る。25歳平均の介護産業従事者に月給25万円を保証することができれば、期待感も膨らむけれども、そうした動きはない。もともと介護保険の行方はあやしいものではないか。いまはまだ「消えた年金」の後始末で苦しんでいる状態だから後回しになっているだけで、国会で追及されていい案件であるはずである。

 また、最近の経団連が再度提唱しているワークシェアリングは、信ずるに値する雇用環境なのであろうか。幻想かもしれないではないか。かれらが自己保存のための内部留保を切り崩すはずもない。しかもここで登場する民間企業への公的資金の導入という政策は、はたまた、妥当なのかどうか。政府によって認められる「大企業」とは、その基準はなんなのか。中小企業は指をくわえて凍死するのを待つだけなのか。たとえば経団連所属企業にはカネを供給し、名もなき中小企業を無視するのなら、東大阪一帯は壊滅する。銀行の場合は、血液循環的発想を公的資金注入の屁理屈として国民をだましつつ実行されたが、たとえ巨大であろうとも、フツーの民間企業へこうした公的資金注入を許す根拠はどこにあるのだろうか。基幹産業であれば許されるとする約束がなされるというわけだろうか。フランスが未成年に1年間新聞購読料をロハにする政策と、えらいちがいといえるだろう。なぜなら、社会的関心を増進するためのいわば教育的措置を若者に提供し、産業のことだけでなく幅広いネイションの在り方を探らせようとする息長い政策と、企業延命策に右往左往する政策と、どちらが将来を見据えた政府判断かということを考えてみればよいからである。多少は、マインドコントロールがあるのが読み込み済みであっても。

 経団連がワークシェアリングを唱える理由は簡単である。賃金支払いの全額を何人で分けようとも、総額が一緒なら懐は痛まない。さらに、正社員の社会保障費用負担も少なくなるのだからウハウハである。正社員のクビを切っていもいいというような、整理解雇の合理化が国民に認知されれば、労働審判の数がウナギのぼりになろう。さらに上の「3.断末魔の声」で紹介したような、治安に関わる問題が同時多発するとき、そのコストは社会的コストととして跳ね返り、結局は国民負担となるのはいうまでもない。

 さらにこのとき、公務員バッシング、たとえば「あいつら給料ようさんもらっとって、働きが悪い、給料泥棒」といったような怨嗟が増幅されれば、実は、資本家にあっては、これまたウハウハなのである。それは、矛先が他方にいくからとの単純な理由ではない。待遇改善をめざすのは労働者の正当な権利であり、公務員といえども生活がかかっているのであるから、ストは国家及び地方公務員法違反になるからダメだとしても、主張するのはよいのである。親方日の丸の労働環境が是正されないなら、民間企業もいいではないかと、なるからである。おぞましい責任転嫁的理屈がまかり通り、民間企業の不正が防いでないかのような錯覚に国民は陥る。NHKですら、「ブラック企業」に関する番組を報道している事実は、木鐸的な役割を果たさなければならないとのあらわれであろう。公務員の地位と労働環境を守ることは、民間企業における社員の労働契約上の地位が不断に確認されることを意味するのである。

6.将来展望

 「国民経済」という言葉の喪失、これがいつ起こったのかを確認することから、日本の将来展望を云々することは、はじまるのではないか。物質的豊かさの追求が昭和の経済の仕事であった。経済的貧困の是正として高度経済成長がそれを達成した。だが、いまやバブル崩壊、そこからの脱出つまり失われた10年を取り戻す括弧つきの経済政策を経て、日本再生が成功したようにみえた。だがそれも実体経済を無視した評価に過ぎなかったといえようか。小泉・竹中改革が相当批判され、反省を求められる中、ノーテンキな政治状況がつづいている。

 「国民経済」とは、一方で富を労働者にもある程度高く配分し、他方で、家族主義的な雇用関係が継続していた時代の賜物であった。国民が一体化して利潤追求に燃えた時代であった。そこでは1億総中流意識があり、経済的中間層が多数派を占め、それが投票行為にも反映され政治が安定あるいは独裁していた。そうだとすれば、その再現は時代を30年は遡らなければならない。とすると、1980年あたりの社会状態への遡及ということになる。

 今後、経済発展は右肩上がりでないのだから、予定調和的な経済発展はないものと覚悟して、低成長に幸福感を充足する精神が求められる。これは「分」を知るといったような封建時代の精神性に類似してくる嫌いはあるが、それとはちがった、「ある程度の高い配分」を人間の精神性に求めるような前進に期待するべきであろう。これは人間観の転換を時代に期待することになる。

 利便性の追求がはじまり、コンビニが徐々に登場してきた時代、地球温暖化が叫ばれはじめた時代。矛盾する2つのベクトルの示す解決を同時選択できなかった時代の出発が80年代であろう。人間は欲望によって前者を突き詰め、後者を後回しにした。こうした事態は、人間に豊かさの意味と人間観の転換をを再度追求させようとする時代のめぐり合わせであって、後者の解決を、いま、しようとしている。問題は、きわめて主観的であるけれども、その解決を80年代の持っていたバブル以前のまだ健全な状態の精神を持ってできるかどうかである。1980年代の、もっとナローにいえば1982、3年のエートスとでもいうべき、オイルショックから脱出に成功した「起動力」、しかもそれが享楽に塗れるまでの「起動力」、そうしたエートスが、新たな地平としての「国民経済」復活の原動力となり、かつ、それが健全なまま政治と経済を指導するようなエートスとなることが、平凡で誰かを愛し続けることのできる社会の実現に要請されている。


(註1)

 資本主義といっても、資本主義の形態は18世紀後半から20世紀、そして21世紀には当然変わっている。資本主義の最初期の産業経営資本主義については、大塚氏の適確な表現を借りて、以下に掲げる。なるほど資本主義の出発とはこうしたものと教えられた。「産業経営をうちたてるような企業家には、すぐれて経営者でありうるような人間的資質と能力が必要です。さまざまな外的諸条件を見極めた上で、合理的な経営計画を立て、道具や資材、またそれに見合う労働力を調達してきて、それを組み合わせる。そればかりではありません。それらすべてが簿記の形式をとって表現され、原価計算や損益計算がはっきりと数理的に行なわれなければならないのです」(岩波新書『社会科学における人間』)。とりわけ「数理的に」、つまり合理的に経営されているところが、それまでの単なる“商売”と異なるポイントである。

(註2)

ルターについては、とりあえず、http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC/

(註3)

http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html を参照。

(註4)

いうまでもなく、『時の流れに身をまかせ』。 詞:三木たかし  曲:荒木とよひさ
http://moto33osaka.web.infoseek.co.jp/kashicard/tokino_miomakase.htm

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