教員免許更新制をどうみるか

1 「不合理な制度」と批判される教員免許更新制

佐久間亜紀氏の岩波書店『世界』2007年2月号への寄稿「なぜ、いま教員免許更新制なのか 教育ポピュリズムにさらされる教師たち」は、免許という制度そのものに着目する立場から、運転免許制度の実施意図と対比しつつ、教員免許制度そのものの意味を解説するなど、有益な指摘をわかりやすく説いている。

アメリカの教員免許制度の考察では、「四年制大学を卒業しておらず、免許ももたない教員」が採用されている現状を紹介し、州によって特色ある教育行政を貫徹しようとするアメリカは、更新制を導入しているけれども、その成立には「独自の事情」があったと指摘する。国にも州にも教員に研修を実施する権限がないので、あえて更新制をタテに、州は更新条件として研修を課すようになっているわけである。私たちは、こうした法のけじめある運用に学ばなければならないのではないか。アメリカ国民の徹底して憲法を守護する態度と、その根の張り方の深さがうかがい知れる制度運用といえよう。

 これに対し、日本はどうか。日本ほど徹底して研修を用意している国はなく、これを効果的に運用すれば、わざわざ更新制を設置するまでもない、更新制の導入は、教育現場の崩壊を惹起する「不合理な制度」の導入となる、というのが佐久間氏の寄稿の主張である。

 そもそも更新制は、この10年ほどの間に、どのような経緯で議論され、構想されてきたのであろうか。

2 教育改革国民会議の「子ども観」

 更新制の導入は、バブル経済の崩壊とともに、90年代後半から聞くようになる。私たちの社会が経済的に疲弊していくにつれて、倫理道徳が問題視されるようになり、道徳教育批判の声の増大と比例して、更新制についての議論が登場するようになったと客観的にいえるのである。両者の因果関係を簡単に矢印でつなぎ合わせれば、「華美な社会→地価税導入による経済破綻→明日がみえず不安感増大→社会が殺風景になる→凶悪犯罪が増えているようにみえる→子ども世界にも変化ありそう→現実としての17歳の犯罪→教員の教え方が悪い、教員自身の破廉恥事件多発→更新制導入だ」となる。

 故橋本龍太郎氏が神戸の事件に戦慄し、危機感を持って国民にメッセージを述べたが、この意識が第16期中教審に共有された。そして平成12(2000)年3月に出発したのが、江崎玲於奈氏率いるあの悪名高い教育改革国民会議であった。「青少年による衝撃的な事件が続いている。教育改革国民会議はこのことを真剣に議論した」とは、同会議の「緊急アピール」(平成12年5月)の巻頭言であった。

 同会議は、90年代後半以降の社会を「惰性的気風」渦巻く道徳的に弛緩した社会であると分析していた。だからこそ、「『ここで時代が変わった』『変わらないと日本が滅びる』というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う」との不可解な、恐るべき発言が登場したのである。さらには、犯罪に手を染める一部の少年たちの反省、解決すべき問題を、すべての児童生徒に波及させ、「子どもを厳しく『飼い馴らす』必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」とまでいっていたのである。いま考えても、驚く発言である。子どもは、飼い馴らす存在に過ぎないというのが、この国の為政者の子ども観なのである。では、彼らのいう、飼い馴らすための「覚悟」とは一体、何を意味するのだろうか。それは、学校規律でいえば、懲戒範囲の拡大ということなのだろう。そう考えれば、最近、懲戒範囲の拡大、出席停止措置強化の「考え」の通知がなされたのもよくわかる。

 また、惰性的だから「変わらないと日本が滅びる」という根拠は何なのだろうか。はっきりわかるのは、その「変わらないと」は、具体的には「教育基本法を変えないと」であったということである。同会議は、「教育基本法の改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする」と、国民を痺れさせさえすればそれでいいかのように教育政策を考えていたのであった。単に「ショック療法」として教育基本法が“改悪”されたわけだから、国民はたまらない。もう少し教育内在的な理屈があったのかといえば、そうではないわけである。ショック療法の手先となり、「飼い馴らす」ことに手を貸した教員は、高く評価されなければならないというのが、同会議の論理構造だろう。しかし、それが「正当な評価」に値する教育的営為であるのか。

 道徳問題の声高なアナウンスは、世間からの批判をかわし、教員統制のための更新制を産み出す伏線であった。こうした現代史的事情から、同会議は教員評価について述べ、更新制についても言及したのである。単なる私的諮問機関の提言に過ぎない導入示唆、つまり「可能性」が、教育再生会議で議論増幅され、いまや佐久間氏がいうように、更新制が「まず導入ありき」になっている。

3 中央教育審議会の思想的動揺

 中教審は、同会議の最終報告に気兼ねし、当時の文科相町村信孝氏の諮問(平成13(2001)年4月11日)に応じざるを得なくなる。この諮問に答えて、平成14(2002)年2月21日に答申したのが「今後の教員免許制度の在り方について」であった。同会議や町村氏の狙いが、更新制を利用した規格外教員の排除にあるのはいうまでもなく、それに対して中教審は、「教員免許に更新制を導入することができれば、適格性を欠く教員への対処が格段に進む」と意義を確認“させられ”つつも、健全な認識を確保しようとする。

 すなわち、第1に、教員免許は教職科目などの単位を修得すれば学生全員に授与されるものであり、その授与にあたって「人物等教員としての適格性を全体として判断していない」。だから「更新時に教員としての適格性を判断するという仕組みは制度上」いまさらできないということ。第2に、免許が「一定の資質能力を公に証明するという機能から、現職教員に更新制の対象を絞ること」ができないし、「人によって研修内容に差異を設けることにも一定の限界がある」ので、「教員の専門性向上のためという政策目的を達成するには必ずしも有効な方策とは考えられない」と文科省の導入に反発し、必死の抵抗を試みる。

 中教審が文科省の圧力にひるみ、結果的に同調したのが、平成18(2006)年7月11日の答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」であった。『世界』において佐久間氏は、中山成彬氏にいいなりになっている中教審の姿勢を確認しつつ、更新制によって教員の資質能力の「刷新」はできないと4つの理由を挙げ、明快に批判した。私には、中山諮問=中教審の思想と佐久間氏は捉えているように感じられたのだが、町村−中山ラインの文科省の要求に対し、中教審は強く動揺しているのは事実であるけれども、最終的に更新制の導入が不適格教員の排除ではないと中教審が一言挿入している点に鑑み、文科省と距離をおこうと、もがいているように感ぜられる。

 平成14年の答申と平成18年の答申との関係について、「平成14年の答申において指摘した課題との関係」をわざわざ説明した「別添3」(18年答申に付属)という文書がある。中教審は、ここで、14年答申は将来的な更新制導入を否定していたわけではないと論調を変えた。なぜなら、学校教育をめぐる状況の変化に即応する必要があるからであるという。しかも、教員の資質能力を確実に保証するための方策を講ずる必要性は、「平成14年の答申時に比べて、格段に高まっている」との認識を示し、論点整理するのである。この主張をみれば、中教審がきわめて強い葛藤状態に置かれているのが伝わってくる。それが、この文書における錯綜した表現にあらわれているので、この「いいわけ」について、2、3の点をみておこう。

 第1は、更新制と「資質能力不足」判断との関係性について。免許更新要件が「免許更新講習の受講・修了とする場合、それが修了できない者は、その時点で教員として最小限必要な資質能力を有していない」と判断せざるをえない。したがって、「教員免許状は失効するため、更新制は、結果として、教員として問題のある者は教壇に立つことがないようにするという効果を有している」と述べる。だが免許授与時点で「必要最小限の資質能力」の保持を公証しているはずであり、資質能力が低落しないよう、研修が担保しているのではないか。

 次に、「一般的な任期制を導入していない公務員制度との関係」についてである。この点の調整が最も難問だと思われる。中教審は、更新制を「その時々で求められる教員として必要な資質能力が保持されるよう、教員免許状に有効期限を設け、その満了時に、一定の更新要件を課し、これを満たせば、免許状が更新される資格制度上の制度」として捉えるのだが、しかし、「今回の更新制は、いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするもの」ではないと位置付ける。日常の職務に支障なく、自己研鑽に努めていれば、「通常は更新される」ものだというのである。文科省を向こうに廻して、中教審はこの信念を貫けるだろうか。

 任期制と更新制の違いについては、以下のように述べる。任期制は一定の期間を決めて採用する「任用」制度であって、再任をもともと前提しない。だから、任用制と更新制とは性格の違うものであり、「更新制の導入により、任期制を教員についてのみ一般的な制度として導入する結果とはならない」と説明している。中教審は、いわば“再任を前提する任期制”として更新制を説明しようとするのだが、この理解の仕方には無理があろう。このように説明してもなお、更新制導入の可否を理由付ける説明となっていない。

 中教審は、文科省の圧力をかわしつつ、主張を曲げまいとするゆえに論理破綻をきたし、それを縫い合わそうと苦しんでいる状態にあると評価せざるを得ない。それゆえ、たとえ中教審が、「更新制は、いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員が、社会構造の急激な変化等に対応して、更新後の10年間を保証された状態で、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていくという前向きな制度である」と啖呵を切っても、それは政府文科省によって切らされた啖呵と同情するほかない。

 私たちは、最後にもう一点、更新制をどの段階で導入するかの議論について顧みておこう。つまり、新規採用された教員から導入するか、現職教員にも適用するかの議論である。現職教員に更新制を導入するかどうかこそが、そもそも更新制導入の根幹に関わる最大の課題であった。この山を越えないことには、更新制導入の意義がないというのが文科省の本音であった。

 平成17(2006)年5月の段階では、現職の免許更新に関連して、中教審は、「新たに教員免許を取得する者についてのみ更新制を適用するのでは、保護者や国民の信頼に十分こたえることはできない」といっていた。こう指摘する背景に、教員の資質・能力への国民の批判が高まっている「事実」があるのは理解できるが、その「資質」に対する「批判」の中身は多様だろう。もちろん教科の指導力不足という教育内在的な批判もある。だが、「思想教員」問題を視野に入れて更新制を議論していないか。容易に「懲戒」的運用をするべく更新制が活用される怖れなしとしないのである。だから更新制は、導入するとしても、恣意的な運用を慎まなければならない。

 つづけて中教審は、現職教員が終身有効な資格として免許を取得している点に触れ、「既得権益で、絶対不可侵ではなく、公共の要請で合理的な範囲内で新たに制約を課すことは可能」とし、「法的にも適用は可能」とする(以上、『産経新聞』2006年5月26日付を参照)。ここにいう「公共の要請」を国民の要請と解釈すれば、それは一般的社会通念を集約した「要請」でなければならず、その集約的判断はむつかしいし、「合理的な範囲内」というのも、なにが「合理的」なのか、やはり恣意的になる。

 平成17年12月に中教審が示した中間報告では、現職には適用しない方針であったのを転換し、検討事項とした。これは、中山諮問以降の文科省の顔色をみたといってもいい。その結果、現職教員については、現行法のもとで免許を取った者に適用することは難しいとの見方が動揺し、現職にも適用する方向で答申のまとめに向かって検討されていくこととなり、更新制の全面適用が合理化されたのである。

4 教職は人生を賭ける価値がある

 いま、教育現場が市場主義原理によって変容しようとしている。客観的には、学校選択制とともに、市場主義原理の学校への導入を加速させる方策として、更新制が捉えられているといえる。教員は評価対象であることを自覚させられる。文科省は、出世の欲望薄い現場を競争意識たくましき職場に作り変えるため、副校長や主幹など「中間管理職」を設け、給与体系に反映させるようにするなど、企業の職階制をスライド的に導入すると同時に、企業精神を学校現場に根付かせようとしている。

 数年で教員の所属勤務校が変わるとはいえ、教員免許の終身有効性は、授業研究や教材開発の技量のプラトー化を生むといわれてきた。つまりマンネリ化である。そうしたぬるま湯的状況に更新制という鉄槌が打ち込まれるわけである。しかし、中教審がいうように、更新制が処分や排除を第一にする断頭台のような制度であってはならない。また、優秀教員確保の手段として更新制を導入するというのなら、その代替案として研修だけでなく、適材適所を求めたFA制度もすでに実施されている。

 ところで、『朝日新聞』(2007年2月22日付)は、管理職の免許更新時講習が、業績によって「必要がない」と判断された場合、免除されると中教審の議論を報道した。その判断は、どのような結果をもたらすのか。それは、日の丸君が代に象徴される服従、つまり、“教員を飼い馴らす管理職”体制という教育改革国民会議の見方のグレードアップヴァージョンだろう。他方、複数免許保持者の場合、ある教科の講習を受け更新されれば、他の教科も自動的に更新されるというのでは、なんのための更新制なのだろうか。導入の時点からこれでは、すでに骨抜きである。文科省の導入意欲とは裏腹に、効果は見込めない。

 免許更新制、学校選択制など市場の論理が絡み合い、義務教育および高等学校教育の行く末がみえない。教員だけがみえないのではなく、教育の主役の児童生徒また義務を負う保護者にとっても、もともとみえないものが、もっとみえなくなる。だんだん離れていく視力検査表の「C」である。「C」が「c」なり、そのうち「・」なっていくのであろう。どこが開いているのかわからない。つまり「開かれた学校」ではなくなっていくということである。

 しかし、である。教育現場がこのように変質し、たとえ教職が「不人気職」とささやかれようとも、教職が人生を賭ける価値ある職業であることに変わりはない。児童生徒の成長を見守る教職。魅力が尽きない。みえなくなっている現場を、しっかりみるためには、どうすればいいのか。教職をめざそうとするものは、志望理由を揺るがないものにし、私たちの先輩が問うてきた基本的な問いを繰り返し問おう。児童生徒をみつめるとは、どういうことか。同じ目の高さに立つとはどういう意味なのだろうか。豊かな人間性は、どのようにすれば育めるのか。個に応じた指導の充実とは、具体的にどのように指導することなのか。こうした問いにフレッシュな回答を寄せ、私たちが自己の資質能力を高めれば、学校・教育がみえてくる。それが私たちの、日々の免許更新なのである。

(Feb.28,2007 稿成る)

5 その後の動き 〜新聞報道〜

「必修2日・選択3日…文科省が教員免許更新講習の具体案」 2007年8月31日 読売新聞

 2009年度から始まる教員免許更新制について、文部科学省は31日、免許更新時に教員が受ける講習の具体案をまとめ、中央教育審議会の専門部会に示した。
 5日間の講習を「必修」(2日間)と「選択」(3日間)に分け、選択では、教員の様々な資質向上に役立てられるよう、多様なメニューを用意することを提言している。
 更新制では、幼稚園から高校まで国公私立すべての現職教員が、10年ごとに教員免許を更新。更新時に30時間(1日6時間)の講習を、全国各地の大学で受けることが義務付けられる。
 文科省によると、「必修」は全国共通で、〈1〉教員に求められる役割〈2〉発達障害などを抱える子供への対応〈3〉学習指導要領に沿ったカリキュラムの編成方法〈4〉親のクレームなど学校内外の課題への対応――の四つのテーマを学んでもらう。

「教員免許更新制の講習案、大学講座選ぶ形式 文科省」 2007年9月10日 朝日新聞

 教員免許更新制が09年度から始まる。文部科学省は8月末、この講習のイメージを中央教育審議会(文科相の諮問機関)の教員養成部会に示した。計30時間の講習のうち、教員が共通して受講する「必修領域」が12時間(2日相当)、教科や学校段階によって変わる「選択領域」が18時間(3日相当)という構想。今後、この構想が妥当かどうかや具体的な講習内容を部会で詰める。
 案では、必修の講習として「教育の意義・役割、学校をめぐる諸課題の分析」や「特別支援教育を含む発達・学習にかかる課題の理解」などが挙げられた。一方、選択では、(1)個別教科の教育法(2)「小学校教員のための科学実験講座」「古代史の最新知見と教科書記述」といった各教科の専門性を深める内容(3)「発達心理学」「知的障害を持つ児童生徒の指導法入門」など生徒指導に役立つ内容――の3分野が示された。
 文科省は、教職課程をもっている大学が特性を生かして講座を設置し、教員側の求めや勤務の状況に応じ、選択して受講する形式を想定。大学が近くにない教員のために通信制大学やインターネットの活用も検討している。
◆文部科学省が例示した教員免許更新講習の取り方◆
【ケース1】小学校教諭
 理科の専門知識の不足を痛感→母校の大学の教員養成学部が主催する夏季集中講座へ。教科の専門知識を深めるため「子どもに教えたい科学の最前線」(3日講座)を受講
【ケース2】中学校教諭
 進路指導の力をつけたいが、部活の指導で多忙→必修領域は通信制で修得。選択領域は近隣大学で「進路指導論」を夏休みに集中受講
【ケース3】高校講師
 教科指導の幅を広げたいが、離島在住で近隣に大学なし→必修領域はA通信制大で受講。選択領域の1日分は別件で県庁所在地に出向いた週末にB大で、残りの2日分はC通信制大で、それぞれ受講

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