西村茂樹の道徳思想について

はじめに

          本稿は、儒教的価値観をもって近代日本の発展を指導した人物の一人である西村茂樹を取りあげ、儒教の教化が明治時代においてどのような役割を果したかを具体的に考察するものである。
 西村が明六社で活動し、また、国民教化連動を展開した明治初期の杜会的思想状況は、たとえば「文明開化もの」の著者たちが伝えるように、道徳的無秩序の状態であった。こうした杜会の風潮が彼をして道徳的啓蒙あるいは教化活動に走らせたのである。ここで道徳的啓蒙というのは、福沢諭吉の知的啓蒙に対する言葉である。すなわち福沢の場合、「文明は人の知徳の進歩なり」(『文明論之概略』岩波文庫、昭和37年、67頁)としながらも、あくまでその「徳」は「智」の発達を前提にしていた。それに対し、西村は「『シヴヰリゼーション』は、社会の全体と人民一身の上とに現はるゝと雖も、基本は人民一身の品位を高くするに在て、推して社会全体の上に及ぼす者なり」(明治8年4月、日本弘道会編『西村茂樹全集』U、思文閣、昭和51年、13頁。以下、本書からの引用は、『全集』と略記し、巻数をアラビア数字で示す)というように、人民の「品位」の向上そのものを課題とし、この観点から啓蒙あるいは教化活動に従事していたのである。西村は、人間は天賦の「徳」をもち、「智」の発達を俟たずとも、「徳」によって人は道徳的判断を下しうると理解していた。その意味で彼は人間性に対する深い信頼を抱いていたといえる。

 このような立場から西村は封建時代において有効に働いていた儒教的世界観によって、明六社の一員として思想的啓蒙を果し、明六社の解散後、独目の国民教化運動を展開したのである。彼が国民教化運動を自己の仕事として選択したのは、民族的統一国家としての日本の独立、またその進むべき道が、国民の高潔な品性の醸成を俟たずしてはありえないと考えていたからである。従って、徳育軽視の社会的現実に直面し、この風潮を正すべく、学校教育だけでなく、日本国民の総てを対象とする社会教育の必要性を痛感したのである。この社会教育を支えた彼の教育思想が、当然道徳思想の形で表現されたのはいうまでもない。

 しかし、福沢など同時代の啓蒙思想家が儒教的モラルを排除しようとしているとき、なぜ西村は儒教的価値観を根拠に啓蒙活動を展開しえたのであろうか、そしてまたこの儒教的価値観は西村の生涯において全く変化しないものであったであろうか。このような問いに答えることは、明治において儒教思想がどのような形で再生し、啓蒙あるいは教化的な意義をもちえたか、どうかを探る試みになるであろう。

儒教思想と普遍的道徳原理

 前述の課題に答えるためには、まず西村の思想的特質を解明する必要があろう。彼の思想の骨格はすでに明治維新以前において形成されていた。我々は当時の彼の思想的特色を三つの点において確認することができる。それは第一に、彼が師・佐久聞象山から受け継いだ先覚者的自覚、そこから具体的に学びとられた砲術研究、それにとどまらず、古今東西の歴史研究に発展した彼の政治的関心の深化であろう。第二に、彼が幕末の経世家として、幕末期に切実に待望した武士精神の覚醒、その現代的活用をめざす教育思想であったといえよう。そして最後に、彼の経世済民の理想を培った儒教的政治思想である。

 このような思想的特色を明治にはいっても西村は保持しつつ、多彩な活動を繰り広げて行った。明治初年の西村は一方で東京修身学社(明治9年創設を拠点に、独力で国民教化運動を推し進めるとともに、他方、文部官僚としても学校教育の正当な発展に尽力していた。この在朝、在野という相反する二つの活動を彼の内面で統一していたものこそ、若くして形成された幕末以来の経世家的課題意識であった。(本山幸彦『明治思想の形成』福村出版、昭和44年、121頁以下参照)というのは、彼が幕末から明治初期にかけて実践してきた儒教思想の内容が、熊沢蕃山や荻生徂徠の様々な論説を自己の上書に引用したことに示される経世済民の儒学であったことに注目しなければならないからである。それゆえ彼の国民運動を支えた儒教的な思想も、この経世済民の儒教思想、少なくとも幕末期の為政者的な意識と、密接な関連性をもつといわねばならない。

 しかし、重要なことはその儒教思想の内容そのものが幕末維新期のそれと同じであったということではなく、その問題意識、すなわち西村を教化運動にかりたてた意識が、経世家のそれと質を同じくしていたということなのである。従ってその問題意識に導かれた思想内容が、かつての経世済民の儒学から、よりよき道徳的国民形成を重視する実践的儒学へ移行したとしても、その目的に相違はなかったとみるべきであろう。彼が道徳実践を重視し、道徳的国民を育成しようとした目的は、まず「今日は道徳大に衰へ、世人滔々不正不徳の淵に陥らんとするの有様」(明治10年代前半期稿・筆者推定、『全集』T、488頁)だといわねばならない現状を改めることにあり、ついで「邦人は西人が富強を致したる精神順序を学ばず、唯現今の文明華奢の有様のみを見て直ちに之に倣はんとす、是に由り之を学ぶこと日に甚しくして其得る所は文明の末弊に過ぎず」(明治10年代前半期稿・筆者推定、『全集』T、477頁)というような表面的な文明開化に浮き足立った世の人々を、着実にして重厚な国民につくり直し、国家独立の精神的基礎を確立することであった。それはまさに為政者、経世家の抱く政治目的と同質のものだといっていい。

 しかも、経世的儒学から実践的徳育へと、西村の思想内容に変化が生じた時期は、明六社での啓蒙活動の時期、しかもそれと同時にその道徳思想の内容に近代性が加味されてきた時期と重なり合っていた。こうした思想の変化はたんに経世的儒学から徳育実践への変化であるだけでなく、その変化が近代思想に触発されたものであり、両者の問に積極的な関連性のあることを予測させる。このことは近代日本の思想的特質である伝統思想と近代思想との結びつきという問題に一般化できよう。

 西村の幕末期における儒教思想は、佐野藩執政時代に窺えるように、その政治目的を理念的には仁政においていたが、現実的には藩の補強をめざす政治思想であった。だが、維新以後は理念としての仁政にこだわることなく、西洋の富国強兵の方法さえも、自己の経世の手段として位置付け、西洋の歴史的モデルに接近していくのである。しかし、彼が明六社での啓蒙活動や文部省で教科書を編纂したことを契機に、彼の経世活動は教化活動として具体化する。そして仁政主義から離れたその儒教思想も、普遍的な西洋のモラルと融合した普遍的理念を追求するものになる。西村はこれを「真理」=「大道」と称し、国民教化運動を実践する際の価値的根拠においたのである。

 明治17(1884)年4月、西村はこの「大道」を「講」じることこそ、自分が組織した団体の今後の課題だと自覚し、「今卒然修身学社の名を更めて講道会とする者は抑何ぞや、夫れ名に大小あり、時に緩急あり、修身は道徳より小にして道徳は天理よりも小なり、天理は或は之を大道といひ、或は之を真理と云ふ(中略)、学問を以て言へば天理より大なる者なし(中略)、初め修身学社を創立する時に当り、愚老は惟修身道徳の頽廃を憂ひて、之を拯はんとするの念のみ切にして、大道の輿廃の如きは未だ之を顧みるに遑あらざりしなり」(『全集』U、111、112頁)と率直に反省したのであった。いまや彼にとって修身道徳の頽廃という表面的な現象よりも、個々の道徳が道徳として成立する根拠たる「大道の興廃」こそが問題の核心になってきたといっていい。

 だからこそ西村は「修身道徳」が成立する普遍的な道徳原理として「真理」を発見すると同時に、他方で儒教道徳をより「真理」に近付けるため、朱子学で説かれたような政治と道徳との無媒介な一体性を否定する次のような発言をしたのである。「夫れ不孝の人は固より能く天下を治むべがらず、堯舜も孝弟の人たるに相違なし、然れとも其天下を治めて治安を致すは別に道のあることにて、孝弟の道を推して天下を治むることを得ると云ふは決して無きことなり」(明治20年代後期稿・筆者推定、『全集』T、535頁)と。

 この一文は普遍的なモラルを探求しようとする西村の意欲を如実に示しているとともに、彼が道徳即政治という朱子学的な思想を否定し、朱子学的儒教思想を基本的には分化させたことを意味する。以下、そのことを資料に即して検討していこう。

明治後半期における儒教思想の分化とその役割

 第一は、朱子学的儒教思想分化後の道徳的特質の意味であり、その儒教道徳が近代社会に通用する普遍的道徳徳目として変質していく方向である。もし儒教が明治という時代に生きて働こうとすれば、恐らくこの方向のみであろう。では、西村は近代的市民社会のモラルを思想的に取り入れるため、どのように儒教を読みかえていったのであろうか。

 西村は儒教経典の中でも「仁」を徳目として最も重視する『孟子』を尊重していた。しかし彼は「孟子は則ち日く、人之有道也、飽食暖衣逸居而無教、則近於禽獣、聖人有憂之、使契為司徒教以人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序朋友有信と(中略)、孟子の言ふ所は、広く社会の全体に及ぶ、故に後世の教を立る者皆孟子の言を奉じて金言と為し、敢て之に違ふことなし、然れども孟子の言う所は、支那の国人には適すべきかは知らざれども、本邦今日の事体には適当せざること多し」(明治10年代中期稿・筆者推定、『全集』T,482頁)と、『孟子』がそのままでは道徳規範として非妥当的であることを指摘し、その道徳思想を当時の社会的現実に見合うように再解釈して行くのである。それは、『孟子』の「朋友」の項目について次のように語っていることからも明白である。「朋友の事を言ひて、広く接人の事を言はず、朋友は社会中の一部分なり(中略)、已に広く君臣朋友のことを言へば、又接人のことをも言はざるべからず、且接人のことは孔子孟子の数々言ふ所にして、論語孟子の中に之を論じたる所多し、故に朋友の外又接人の条をも加へざるべからず(中略)、孟子の五倫の説は、其儘にては今日に用ふること能はざるなり」(明治10年代中期稿・筆者推定、『全集』T、483頁)。

 この『孟子』の五倫に新たに加えられた「接人」はもちろん普遍的徳目であり、こうした人間交際のあり方は外国人との交際においても通用するものとみなされていた。このような第一の方向において儒教思想は西洋の哲学と折衷され、西村特有の道徳思想となって結実し、明治19(1886)年12月、その成果が『日本道徳論』として東京帝国大学において講演されたといえよう。

 次に、朱子学的儒教思想を分解したのちのもう一つの方向である政治的特質の意味について述べてみたい。この特質は、幕末のいわゆる経世的儒教の側面である。西村の経世的儒教は仁を基盤とするものであったが、この側面も明治にはいってからは実は第一の方向である普遍的道徳、つまりより高次な彼の「真理」に吸収されつつ、それはすでに述べたように儒教的仁政論にかわって保守主義的な理想主義的道徳思想として再生し、人民の生活を無視し欧化政策を全面的に強行していた政府を批判する思想的根拠となったのである。

 そしてこの第二の方向は『国家道徳論』(明治27年3月)、『続国家道徳論』、(明治30年9月)に結晶される。特に前者では、「今日世人の最も誤謬の見を抱けるは、道徳と政治とを分ちて二様とすることなり」(『全集』T、99頁)と朱子学的な意味ではなく、個々の政治家における道義観念の喪失を問題とした。従って「政事を執る者、及び政事を論ずる者、多くは道徳を棄てゝ顧みず、今日国政の善美ならざるは、其源皆爰に在りて存す、夫れ上古の時は風俗簡撲、本より道徳政事を分つて二とするの要なし、後世人智日に進み、人事日に繁きに及び、道徳と政事と終に分れて二となる、然れども其分れて二つとなりしは唯学問上の事にして、即ち道徳学と政事学と別の学問となりたるなり、是を実際に行はんとするには、固より道徳と政事と分ちて二と為すべからざるなり」(『全集』T、99、100頁)と、現実的には政治を道徳に吸収し、政治家や政治を論ずる者は、その人目身、道徳的に誠実な態度を維持し、恥ずかしくない政治的実践を行なうことこそ肝要なのだと高唱したのである。政治批判の原点を道徳においたといえよう。

おわりに

 晩年、西村は政治を道徳に解消する立場から政治家に道義性を強く要求し、この立場を全国民的規模に拡大するため渾身の努力を捧げたのである。とはいえ不正を許さない国民の醸成や、政治家個々人に道徳的自覚を要求するだけでは政治自体は改善されない。その為には具体的な政策の提供がなされるべきである。だが、彼がどのような政策を出し、それがどのように明治日本の現実に反映されたのかという問題の分析は、本論の対象外に属する問題であろう。

 要するに、西村の思想は、彼自身行動に節操をもち、あらゆる出来事、事態をいかに収束するかという指針にたえず道徳的な正しさを据えた一徹な個性と相俟って、国家の健全な発展を願ってやまない「国家主義」思想として生命をもったのである。とすれば幕末の経世家的発想が儒教思想の現実主義的変容を促し、明治国家への批判的世論を活性化させる上で一定の役割を果しえたということができるであろう。

トップページへ   このページのトップへ

浩の教室・トップページへ