歴史記述の問題性

 パラパラと散見したブログに面白い内容が載っていたのにたまらず引っかかり、少し感じたことを綴ってみることにします。それは「歴史は科学ではないのか」といっていいものですが、散見したブログからワタクシが読みとったのは、つまるところ、「歴史は語られているものと語られていないものがある」ということのようです。

 うろ覚えで申し訳ないのですが、たとえば戦国時代の歴史を書くとして、織田信長に関する文献は残っていて、それを基礎資料に歴史を書くことができるであろうが、信長と同時代を生きたフツーの人びとの残したモノは残っていないのだから、時代全貌の歴史は正確には書けないということのようでした。語られなかった未発掘の「真実」がそうした市井の人びとの記憶の中にあるのではないか、散逸あるいは焚書されたドキュメントの中に手繰り寄せるべき「真実」が記載されていたのではないかとの見解です。また別のブログでは、上の例をさらに突き詰めたホロコーストの議論があって、発言者を抹殺してしまえば、文書は残らないのであるから歴史は語られないという記述もありました。「おまえたちをすべて殺してしまえば、語る存在がいなくなる。われわれの勝ちだ」というようです。こうした発言が「負けた」naziから不気味に突きつけられていたところに、naziが歴史をよく知っており、歴史とは想像物でもあり創造物でもあり、引いては科学ではないといった、どう捉えるべきなのか根底を考えさせられる歴史記述の問題性の指摘があります。これは勝者と敗者の歴史議論を思い起こさせる話題であるにとどまらず、テキストクリティック以前の問題関心でもあります。

 上述の観点について、いささかワタクシの問題関心にシフトして申し上げることとします。思想史であれば、そこに登場する頂点的思想家ばかりをとりあげて、それ以外の市井の人びとの思想をとりあげなければ、時代全体の歴史的個性の評価を歪めるのではないかとの疑問があります。たとえば明治時代の思想史といえば、その代表選手は福沢諭吉(註1)なわけですけど、彼が明治時代を代表する思想家であることは誰も否定できない一方で、それ以外の市井の人びとが何を考え、どんな生活をしていたのかを歴史分析しなければ、明治時代というスパンの思想史は成立しないのではないかと思うわけなのです。

 すると、学問的範疇で述べるとして、すべての○○史学、つまり思想史学や経済史学やフォークロア的考察その他もろもろの史学の融合が成立しないかぎり、歴史は書けないということになってしまいます。ひとりの特徴的な、ここでは明治時代における啓蒙思想家にして資本主義のトレーガー(いわゆる官民調和論)たる福沢の語ったことを根掘り葉掘り引用して、それで歴史が成立するのかといえば、そうではないという結論になってしまいます。それは思想家個人の思想分析に過ぎない、と。その時代の中でどれだけのどのような役割を果たしたかを思想家個人に即して分析することは重要な作業であるけれども、それは歴史ではない、と。しかし反対に、ひとりの思想家の思想的成長を社会の変遷と関わらせて跡付けていくことも歴史記述になるのではないかとの考え方もあります。どちらの立場であれ、これらの考え方は、ここで問題にしている「語られないもの」を、そもそも歴史記述にアップしないスタンスでしょう。このように考えてくれば、分析手法をめぐって大きな森の中を彷徨ってしまうことになりますね。一言でいえば、歴史分析のアプローチの相違ということになります。そこで、「歴史は語られているものと語られていないものがある」の議論に絡ませながら、「科学としての歴史」について行論してまいります。

 ある時代のある時点にインパクトを与えたとの歴史的評価が、件の福沢などは広範に認められています(天賦人権論)。そうした意味で評価するのは許されるなら許されもしましょう。けれども、「だからなんなのよ」に回答することができません。この「だからなんなのよ」といった、ときおり恋愛中の異性から発せられる醒めた蜂の針は、事の本質を明示せよ、あるいは結論はなんなのかを要求する疑問なのであって、歴史家にとっては大敵たる「質問」でしょう。実際、この「だからなんなのよ」に真摯に解答している「歴史」しか、この世には残っていかないと思えます。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と自然秩序を人間世界に反映させる封建体制下の思想原理を批判した言説に対し、「だからなんなのよ」と素っ頓狂にいわれたら、歴史家はヘナヘナになってしまうでしょう。「だからなんなのよ」には次のような問題意識を持って応じるべきだと考えます。「歴史」は、現代的問題関心から出発する観点が書く際にあることと、時間的な因果関係の追求がその記述の中にあることと、歴史記述が歴史そのものに埋もれて干からびず新鮮さを保持できることとの3つのエレメントを用意しなければならないということです。第1は、E.H.Carrがどこかで述べていると思われますが、未来を切り拓いていく勇気を読むものに与えてくれます。第2は、市民が主体であるにしろ、国家が主体であるにせよ、多様な選択や行動決定のプロセスにヒントを与えてくれます。第3は、極めて難しいことであり、「歴史記述の生命維持」を意味しますけれども、歴史家の持つ主観=問題意識が古典化しないことです。ただ物質であれ精神であれどのようなものでも時代の刻印を受けざるを得ないものですから、ここまでは要求できないのかもしれません。

 もう少し掘り下げて、上の3点の議論をつづけてみます。ワタクシは、「歴史」とは、第1に、現代的課題が歴史記述に組み込まれている記述と捉えています。それを明示してはじめて、「語られないもの」をいわば置き去りにしても構わないとの放逸の許可があると考えます。現在、盛んに『蟹工船』などのプロレタリア文学が論議のマトになっていたり、60年代の学生運動が顧みられたりしているのは、「貧困」(註2)や「反権力」が普遍的な課題意識として現代に登場しているからでしょう。歴史に問題解決の糸口を期待するがゆえに、こうした個別のテーマが語られることになります。しかしこれらのテーマの場合、ただ採りあげるだけでは、思い出に浸るコンプレックスというほかありません。ここから脱却し、放談録ではなく「歴史」に「する」ため、第2のエレメントが必要十分条件となります。

 すなわち、歴史とは現象間の因果関係をハッキリさせる分析科学であるとの立場に立って書くことです。時間軸のある時点とある時点との間に、なにがあってそうなったのかを結び付ける作業―その分析スパンが1年なのか10年なのかは分析するものの自己設定でしょう―を歴史家は行なっているのだと思っています。こうした自己設定は主体的作業でありますから、このような時間経過に即してある種の連鎖を発見する際には、どうしても歴史家の主観が入ってしまいます。すなわち「歴史」を書くという作業は、どのようなテキストを資料として採用し、どのように位置付け、時間軸上にあらわれる事件なり、思想の変化なりを跡付ける行為であります。だから、強引にいえば、未発掘の市井の人びとの記憶を意図的に排除してよいとの判断が働くわけです。どの資料を採用したのかを明記する清潔さ―これを歴史家の備えるべき禁欲的態度と表現するべきかどうかはおいておいても―が必要と丸山真男がどこかでいっていたはずです。

 これまで述べてきたことからまとめていえば、コンパスの針軸つまり中心O地点を現代において、A地点とB地点とが扇形の曲線で結ばれる像、いわばホール・ケーキに中心からナイフをいれて一人ひとりに皿盛りするショートケーキの周辺曲線を、因果関連的に記述するのが歴史であると捉えられるのではないでしょうか。もちろんその周辺曲線(弦といっていいのかもしれません)をどのようにデコレイトするかは歴史家個々人に任せられています。そして、この3つの軸足がしっかりしていれば、「だからなんなのよ」に応答する資格が生まれます。さらには第2段落で書いた「歴史とは想像物でもあり創造物でもあり、引いては科学ではない」との批判にある程度対抗できるのではないでしょうか。

 歴史がその結論を数学的証明のように求められるのではなく、扇形のショートケーキの断面のような記述として期待されるとすれば、第3に、このケーキを腐らせないための、主観の新鮮さを保持しなければならなくなります。歴史記述がクラッシックになってしまうのは、ひとえに歴史家個々人が書いた当時の主観が、現代からすべり落ちてしまうところに根拠があります。しかし逆に、歴史家個々人の主観もっといえばその当時の問題意識が新鮮でありつづけることは、現代社会自体が同じ問題を抱えてダラダラと継続していることを意味するといえます。とすれば、歴史家の問題意識の表出そのものが現代社会の測定となっており、現代社会の問題の抉出と現代社会の進歩の度合いを示すことになります。この測定が歴史家のひとつの仕事であるとすると、「歴史記述の歴史性」という2重に「語られたもの」の古典化、つまり、歴史的な言説の伝統化といいますか、歴史的な言辞の「不易」化の議論を引き起こすと考えられます。これについてはさらなる検討を要するので、ここでは棚に上げておきます。

 歴史は書き換えられる可能性(新資料=“語られていたもの”の発見)を持っている未完の科学であることはどうして承認しなければなりません。その前提の下、歴史が科学であると自己主張するには、自然科学的=実証主義的なアプローチをギリギリまでとりつつ、上のように歴史が社会測定器であることを個々の歴史家が自覚しているかぎりにおいて科学たりえるといえるのではないでしょうか。(Jan.6,2009)

 (註1)ところで、いわゆる啓蒙思想家はエラソウなお歴々ばかりで、西洋近代を無知蒙昧な庶民に説教してやるとのイケ好かない臭味がプンプンしています。enlightenmentは、片や人間理性への信頼であるかもしれませんが、同時に庶民をミスリードする危険性を兼ね備えている思想的原理になる可能性があります。"lighten"できるとの自負が、ワタクシにあっては気に入らないわけであります。

 (註2)「貧困」について大問題になっている年末年始であったが、ここでは直接のテーマではないので触れない。なお、一番ストレートかつ正しく指摘しているのは、山口二郎氏である。以下、参照

「派遣切り報道への疑問」http://yamaguchijiro.com/?eid=709
 

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