教員は何に追いつめられているか
(『世界』2007年2月号特集の書評)

1 元ミスター文部省

 ここ数日、『世界』(2007年2月号・第761号)岩波書店と週刊『東洋経済』(2007年1月27日特大号)東洋経済新報社を読んでいた。前者の特集は、「教師は何に追いつめられているか」であり、後者の特集は「ニッポンの教師と学校 全解明 いちばん身近な『見えない世界』」である。

 ワタクシはある先生に、この特集の存在を教えられたのだが、もう手にとられた教育に関心を持たれる方は多いと思われる。週刊『東洋経済』は、さて置くとして、『世界』について簡単にその感想を記しておこう。

 複数の教育学・教育社会学研究者やルポライターが寄稿し、この特集は成り立っているけれども、それらにほぼ共通して取り上げられていた、2006年4月に自殺した新宿区立小学校教諭(23歳女性教諭)の事件(註1)に象徴されるように、寄稿者に底流する意識は、教育現場の多忙さ、「疲れ果てる教師」(尾木直樹)像であった。それはまた、各執筆者がこぞって財団法人労働科学研究所「教職員の健康調査」統計を引用する態度からもうかがえる。

 特集の前段に、寺脇研氏と浅野史郎氏の対談があり、文科省と市民との教育要求の噛み合わない様子を寺脇氏が語っていておもしろかった。自ら「情報公開」役を買ってスポークスマンの役割を担いつつ、あれだけ体制内部で活躍した寺脇氏が官尊意識の払拭をいうのだから、彼以上に文学の「ぶ」の字も知らないごりごりの文部官僚たちなら、もっと「お上意識」、「中央意識」が強いのだろう。

 もうひとつおもしろかった点は、教員が官との団交において、文学的な言葉を使って泣き落としをするのを寺脇氏が批判しているところである。いってみれば、教員が「文学的な言葉を使う」=「社会科学のように理論的に話さない」と教員を叱咤しているわけで、このあたりが本当なら、教員も反省しなければならない。だが、この特集に寄稿した小学校教諭の論考などを読めば、寺脇氏の批判は、そうでもないような気がするのである。

 団交について書いている前後の文脈において、寺脇氏は、「文部省、いまの文部省もそうなんですよ。教科調査官なんかみんな先生だから、『ゆとり』とか『いじめ』とか、全然、社会科学的じゃない言葉を使うわけです。『ゆとり』なんて最たるもので、『ゆとり教育』と言うからややこしくなる」と喝破している。

 ワタクシなどは、「ゆとり教育」というキャッチフレーズを世に流通せしめ、この教育政策を遂行せしめたのが寺脇氏であると認識していたから、プッと噴いてしまった。この寺脇氏のいい方からすれば、それはレッテルだったようである。

 浅野氏がおどけて、寺脇氏を指してあだ名した「ミスター文部省」という表現は、福沢諭吉が「文部相は三田にあり」と評されて以来ではないか。

 映画少年だった寺脇氏が「文学的」であったラサール時代を語り、そうした意識を根底に持ちつつ官僚生活を送り、他の文部官僚との温度差を感じなかったか不思議である。もし寺脇氏がその「温度差」を感じていたとすれば、前半の文部科学省の「解剖」的批判と、「『ゆとり教育』と言うからややこしくなる」という姿勢が齟齬していることになり、ワタクシなどは違和感を持ってしまった。

 しかし、対談で「セクショナリズムと二項対立」が文科省の抱える(抱えてきた)問題点であると寺脇氏が述べている点は、官僚の行政態度がみえてきておもしろかった。寺脇氏は、その「文学性」を内包する人間性のユニークさが命取りとなって、文科省を去らねばならなかったのだろう。政府自民党教育系議員に、まだ「ゆとり教育」に未練を持っている人間力肯定論者が根強く存在することから、そう感じるのである。政治によって追放されたのではなく、官僚世界から押し出されたという了解である。

 特集は、この後、野田氏、尾木氏の論考などに続くのであるが、以下、ワタクシなりにコメントをしてみようと思う。「師範塾」のルポは力作だと思う。

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(註1)「夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った 23歳教諭の苦悩」『朝日新聞』2007年10月09日

 東京都新宿区立小学校の新任の女性教諭(当時23)が昨年6月、自ら命を絶った。念願がかなって教壇に立ち、わずか2カ月後に、なぜ死に至ったのか。両親や学校関係者に取材すると、校内での支援が十分とはいえないなか、仕事に追われ、保護者の苦情に悩んでいた姿が見えてくる。
 母(55)がメモ帳に書かれた遺書を見つけたのは、死去から2カ月たった昨年8月のことだ。「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です」。「無責任じゃない。責任を果たそうとしたから倒れたのに」と父(55)。やりきれない思いがこみあげた。
 高校時代から教師を目指した娘が小学2年生の担任としてスタートを切ったのは、その年の春。
 この学校は各学年1学級だけで同学年に他に担任がおらず、授業の進め方の直接の手本がなかった。しかも、前年度10人いた教員のうち5人が異動していた。「家庭の事情など本人の希望などを尊重した」と区教委は言うが、「校長の経営方針に反対して異動を希望した教員も多かった」と学校関係者。「新学期のうえに教職員が入れ替わったせいで、ゆとりがなかった」と関係者は語る。
 娘がまず提出を求められたのは食育指導計画、公開授業指導案、キャリアプラン……。離れて住んでいた父は娘と電話で話していて「追いまくられてると感じた」。午前1時過ぎまで授業準備でパソコンに向かい、そのままソファで眠る日が続く姿を姉が見ていた。
 娘は姉や祖母に「保護者からクレームが来ちゃった」と話してもいた。
 区教委によると、ある保護者が4月中旬以降、連絡帳で次々苦情を寄せた。「子どものけんかで授業がつぶれているが心配」「下校時間が守られていない」「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのでは」。校長がこれを知ったのは5月下旬だった。「ご両親が連絡帳の文面を見たらショックを受けるかもと区教委から言われた」と父。
 他の保護者たちも校長室を訪ね、「子どもがもめても注意しない。前の担任なら注意した」などと訴えていたという。
 娘は5月26日に友人と会ったとき、「ふがいない」「やってもやっても追いつかない」と漏らした。その翌日、自宅で自殺を図ったが、未遂となった。
 母が急いで精神科を受診させたところ、抑うつ状態と診断された。魂の抜け殻のようで声が出ない。娘は言った。「ひどい」。しばらくして「あたし」。
 自宅の風呂場で自殺を図ったのは、その2日後の夜だった。翌6月1日朝、病院で亡くなった。
 「大学時代、小学校で先生の補助をし、笑顔の絶えなかった娘が、どうして……」。両親は写真に問い続けた。
 団塊の世代の退職を受け、各地で新人が次々採用されるなか、埼玉や静岡などで自殺が起きていたことも改めて知った。
 亡くなって5カ月後の10月下旬、地方公務員災害補償基金東京都支部に対し、公務上災害の認定を申請した。「声を上げないとさらに亡くなる人が出てしまうかもと思うと、いてもたってもいられなかった」と母は話す。
 今春、2人は都公立小学校長会に手紙を出した。その一節にはこう書かれていた。
 「若い先生方への心と身体へのサポート体制を学校全体として作り上げていただきたい。そして若い先生方に、いつまでも夢を追い続けていただきたいとの一念です」

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(追記)「新任女性教員の自殺、遺族が公務災害申請へ 西東京の小学校」『産経新聞』2007年12月25日

 東京都西東京市の市立小学校に勤務していた新任の女性教員=当時(25)=が昨年自殺したのは、過重労働や公務上のストレスが原因として遺族の代理人が25日、地方公務員災害補償基金都支部長(石原慎太郎知事)に来月にも公務災害認定を申請する考えを明らかにした。昨年6月には、新宿区立小学校に勤務していた別の新任女性教員=当時(23)=が自殺しており、代理人の川人博弁護士は「学校側の対応不足など共通の背景が存在し、制度の見直しを含めた対策を急ぐべきだ」と訴えている。
 都内で会見した川人弁護士によると、教員は平成18年4月、新任教員として市立小に赴任し、2年生の担任(児童数36人)になったが、過重労働やストレスが原因で鬱病(うつびょう)に罹患(りかん)。10月30日に都内の自宅アパートで首つり自殺を図り、病院に搬送されたが意識不明のまま12月16日に死亡した。
 教員は担任業務に加え、深夜にも携帯電話に保護者からの連絡が入るなど対応に追われ、実質的な超過勤務時間は1カ月100時間を超えていたという。鬱病発症後、教員は一時休職するものの8月末には職場復帰し、投薬・通院のかたわら自殺を図る5日前まで業務をこなした。この際、学校側からは副担任をつけるなどの措置はなかったといい、川人弁護士は「教員の過労・ストレスを助長する学校運営があったのではないか」と指摘している。
 川人弁護士は教員が自殺の1週間前に母親へ送ったメールを公開。メールには「毎日夜まで保護者から電話とか入ってきたり連絡帳でほんの些細なことで苦情を受けたり…つらいことだらけだけど」「泣きそうになる毎日だけど」と、教員の疲弊した心情がつづられていた。

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(追記)「新任教諭自殺は公務災害 「職場の支援不十分」処分覆す」『朝日新聞』2010年3月5日

 東京都新宿区立小学校に勤務していた新任女性教諭(当時23)の自殺をめぐり、地方公務員災害補償基金都支部審査会が、自殺を公務外の災害とした都支部長の処分を覆し、公務災害と認める裁決をしたことが5日分かった。処分に不服申し立てをしていた遺族は「長く苦しい時間だった。裁決に感謝したい」と話した。
 2006年4月に2年生の担任として着任した教諭は、2カ月後、自宅で自殺した。直前に「抑うつ状態」との診断を受けており、「無責任な私をお許し下さい。すべて私の無能さが原因です」とする遺書が見つかった。遺族の公務災害申請を受けた08年9月の都支部の処分では、職場の支援があったにもかかわらず短期間で発症したとして、「個体的要因が相対的に有力な原因」と判断し、公務上の災害と認めなかった。
 今回の裁決では、学年が1クラスで、相談できる同僚がいなかったことや、担任6人のうち4人が異動で替わったばかりで相談しづらい状況だったことをあげ、支援が「不十分」だったと指摘。
 さらに授業や学級経営に不安を抱えていたうえに、保護者から「結婚も子育ても未経験」などの指摘を受けたり、校長から「親が『あの先生は信頼できない』と言っている」と伝えられたりしたことも重なり、「強度の精神的ストレスが重複または重積する状態」により発症、自殺に至ったと認定した。
 5日に会見した父親は「感謝している。遺書にあったように、娘が無責任でも無能でもなかったことを示してくれた。このような悲劇を繰り返さないよう、若い先生を支えるシステムをつくってほしい」と訴えた。
 代理人の川人博弁護士は「職務が原因とみられる教職員の自殺でも、遺族が公務災害の申請をするケースはまれ。こうした裁決が出たことで、今後は申請の動きが広がるのではないか」と話した。

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(追記)新任女性教諭自殺「業務が原因」と公務災害認定『毎日新聞』2016年2月29日

 2006年に西東京市の市立小学校に勤務していた新任の女性教諭(当時25歳)が自殺したのは過重労働が原因として、遺族が地方公務員災害補償基金(東京都)を相手に、公務災害と認めなかった処分の取り消しを求めた訴訟の判決で、東京地裁は29日、公務災害と認めて処分を取り消した。吉田徹裁判長は「学校の支援が十分でなく、自殺の原因は公務で発症したうつ病」と指摘した。
 判決によると、女性教諭は06年4月に採用され、2年生のクラス担任になった。5月に「児童が万引きを起こした」という情報を受け、保護者に連絡すると、保護者から「事実を示せ」と怒鳴られた。6月ごろには複数の児童の靴や体操着が隠されるトラブルが発生したほか、週10時間の初任者研修とリポート提出も求められ、7月にうつ病を発症して病欠した。
 9月に復帰したが、「いじめがある」などと保護者から携帯電話に訴えられることに悩んでいた。校長から病気休暇を勧められたが、10月に自殺を図って意識不明となり、12月に死亡した。遺族は公務災害認定を求めたが、同基金が「公務が原因ではない」と認めず、遺族が提訴した。
 判決は、児童の万引きでの保護者への対応について「経験の乏しい新任教諭に判断を任されるのは荷が重く、上司らの手厚い指導が必要だった」と指摘。クラスでトラブルが続き、校長に報告すると叱責されると悩んでいたことや、1日2〜3時間の残業では間に合わずに仕事を家に持ち帰っていたことから「全体として業務によって強い精神的、肉体的負荷があった」と認定した。
 文部科学省の調査では、14年度にうつ病などの精神疾患で休職した全国の公立学校の教員は5045人に上る。遺族の代理人弁護士は「教員の健康なくして健全な教育はあり得ない。教育現場の改善を実現していく上で重要な判決だ」と訴えた。同基金は「判決内容を精査して対応を検討する」としている。【島田信幸】

2 復古「教育基本法」下の教師たち

 特集の巻頭を飾ったのは、野田氏の「復古『教育基本法』下の教師たち 教師をいじめれば教育はよくなるのか」であった。全編にわたって、現在の教育行政、教育現場に対する筆者の深い憤りが感ぜられて胸が苦しくなる。

 鬼面人を驚かすような見出しで、読むものの注意をひかねばならないほど、教育基本法の改正=改悪は指弾されて当然であった。「祖父母、父母殺し」とあるのが目にすぐ入り、ワタクシたちは、尊属殺人の当事者であったのかと自問自答せざるをえない。野田氏は、非常なる産みの苦しみ、つまり、戦前の反省と真摯な議論を踏まえて颯爽と登場した改正前教育基本法が、国粋主義的傾向が強まる現実的背景において、簡単に改悪されたことに忸怩たる思いなのであろう。野田氏自身もその共犯者であると自省せざるを得まい。その反省の気持ちが、後輩の学問的姿勢の批判につながっている。

 野田氏は、「若い人文・社会科学の研究者のなかには、『何を書いても、論文の落し所は“日本は優れている”だよね』と察する者まで現れた」ことに憤慨している。さらに、「今、教育学が拠って立つ基本が崩されているのに、若い教育学者はほとんど感受性を持たなかった」と手厳しい。この一文は、小さくまとまるものへの警鐘といえるし、教育基本法を作った世代の正しい思想的継承が成立せず、「転倒」している愚の指摘であった。この「転倒」の愚は、教育再生会議のメンバー構成についても向けられているし、沈黙を守る教育学者一般にもおよぶ。

 教育再生会議のメンバーで国際日本文化研究センター教授川勝平太氏がチョーチン学者かどうかは知らないが、野田氏の批判を読んで、憮然としているかもしれない。 このほか、教育再生会議のメンバーを見渡せば、独立行政法人理化学研究所理事長野依良治氏(座長)、株式会社資生堂相談役池田守男氏(座長代理)ほか、話題になった横浜市教育委員会教育委員義家弘介氏、公立学校勤務から私立の雄・立命へ華やかに転進した陰山英男氏、京都市教育行政の刷新によって脚光を浴びている京都市教育長門川大作氏、教育バウチャー制度の推進派である白石真澄氏、ワタミ株式会社代表取締役社長・CEOにして学校法人郁文館夢学園理事長渡邉美樹氏などであり、生粋の教育学者と位置付けられる「有識者」はいない。あえて教育関係の人を挙げれば、「教育ジャーナリスト」の肩書きで参加している品川裕香氏だけだろう。

 これは教育の専門家を口封じした結果なのだろうか、それとも、教育を語ることが、誰でも語れる経験則の議論であることの裏返しなのか。官邸主導のこの会議に、たとえば藤田英典氏などの体制に棹差す教育学者を人選するはずはない。都合の悪い意見を声高々に主張して、左翼の烙印を押されてしまえば、いかに教育学の大家であろうと、無視されるのである。そもそも人選リストには、「女王の教室」女優は入っていても、教育学者ははいっていなかったのだろう。

 それだけに、中教審に賭ける期待は、まだしも大きいといわなければならない。同会議の報告は、中教審で診断され、行政方針になるからである。その座長に、山崎氏が就任したが、ちゃんとした音頭をとってくれるのかどうか。だが、このように行政に期待をすることは、ハナッから意味がない。教育行政に対抗するのは、市民の自発的活動であり、教育的アマチュアなのである。

 とすれば、本来、教育再生会議のメンバーになってはいけない教育的アマチュアが、体制に絡めとられてしまったことが、躓きのはじまりなのである。つまり、教育的アマチュアたる自覚が、メンバーにはないというところに、同会議の傲慢さがある。やはり経験則だけでなんとかなるほど甘いものではないのである。

 さて、教育基本法の話に戻そう。百歩譲って、憲法が「押し付けられたもの」だとすれば、教育基本法はそうではなかった。「教育根本法」を制定しようとの意欲から、民主的な教育刷新委員会(中教審の母体)が出した成果である。自主憲法制定に燃える自民党が、自主「教育基本法」を作りたかったのかといえば、そうではない。憲法改正の前座として、改悪してしまったと考える。これがワタクシの立場である。露払いの役目を担わされた教育基本法。その価値が矮小化されてしまった基本法。ワタクシたちは「空気のようなものであり、私たちはそれを吸い込み、その爽やかさも凛凛しさも忘れて、当然あるもの」として胡坐をかいてきてしまった。そのツケが、60年後のいま、取立てに追われている。是非、この歴史的事情を劇団四季は公演してほしい。

 野田氏の筆は、教育基本法改悪批判のあと、第1に、広島県教職員組合の調査資料を駆使し、第2に、『教育委員会月報』の数字に基づき、現場教員のおかれた厳しい環境をあぶり出している。こうしたガケップチに立たされている教員に対する医学的なアプローチが機能不全していることをも、比較文化精神医学専攻の立場から、追及する。

 新世代向精神薬の議論は読んでいておもしろかった。よく話題になる三楽病院の医療実態についても、告発している。ただ、この三楽病院については、実際、情報が錯綜し、ワタクシを含めた一般の人びとにはどう判断していいかわからない。教員に対する治療そのものが、野田氏が指摘する「医療を利用した拷問」なのかどうか。二項対立的に校長に服従するか否かを迫り、受診に来た教員の投薬量を増やすような医師が本当にいるのか。もっといえば、三楽病院と東京都教育委員会の間には、「指導力不足教員」を葬る密約があるのだろうか。

 最後に野田氏は、「子ども嫌いが教育を語る」と節の題を設定し、結論として「今日の教育再生とは、教育行政が教師を尊敬することに始まる」という。この結論にたどり着くまでの野田氏の論旨は、教育長批判、「偽りのネーミング」批判を展開している。

 そこでは、「未履修問題」は「単位詐欺問題」であると論破し、なるほどと合点がいった。勉強不足のワタクシなどは、こう切り込まれると賛同するほかない。まさになるほどの読後感であった。たしかに生徒に罪はない。罪を犯したのは、校長であり、教育委員会である。管理職は権力のお片棒をかつぎ、ご都合主義であると野田氏の舌鋒は鋭い。

 だが、学校現場の管理職全員を「子ども嫌い」といい切るのには、同意しない。広島県世羅高校校長石川氏は、そうではないのではないか。

 最後にワタクシから述べておきたいことがある。それは、教育行政に「教師を尊敬する」よう求めるのは、馬鹿げたことだということである。尊敬なる精神態度は、誰かが誰かに依頼するものでなければ、当事者から要求するものではない。ここは、「尊敬」と言う言葉を使うのではなく、「敬意」を使うべきだろう。すなわち、「今日の教育再生とは、教育行政が現場の教師に敬意を払うことからはじまる」といわなければならない。この点、どうも野田氏は、中教審の議論、つまり「新しい時代の義務教育を創造する」に引きずられているように感じるのである。

3 子どもたちに「先生」を返せ

 法令執行人といった、いささか、いかつい表現で教員を形容する尾木直樹氏の論考「子どもたちに『先生』を返せ 『法令執行人』化させられる教師」は、何を主張しようとしているのだろうか。その核心は、こういうことであろう。

 改正前教育基本法の第10条の文言「直接性」の価値を深く理解し、児童生徒と面と向き合い誠実に「仕事」をすることこそ、教員のあるべき姿であるのに、現実は雑務に時間的余裕を奪われ汲々としていて、およそ教育の場とは程遠い似非教育空間が広がっている。その似非教育空間は、同時に、教員評価が学校現場の隅々にまで行きわたっている場であり、管理職の監視下におかれた教員たちは、やるせない気持ちを抱えつつ、管理職からの評価視線を一身に受ける場へと学校が変質していくのを、下を向いてやりすごすほかない。淡々と「法律を守る立場」に自己をおいて、教育の本当の仕事=児童生徒と真剣に向き合うことができなくなっている…

 そうした他の場所にいる先生を子どもに返せ、と。教室に返せ、と。

 「理想の教員像」というようりもむしろ、「正しい教師像」が崩されている。「子どもの前から姿を消す」教員が増えるのも無理はない。

 法令執行人という言葉それだけを聴けば、死刑執行人と同列なのかなと、ひとは想起するであろう。それだけ凄まじい上意下達的行政命令が、教員という地方公務員に降りかかるのである。その実態を、尾木氏は独自の調査に基づきワタクシたちに示してくれる。この独自調査結果に述べられた教員たちのうめき声を聞くだけでも、教員世界のある断面を知ることができ、この雑誌『世界』を購入する価値があろう。それほどシリアスな言葉が並べ立てられているからである。

 また、改正教育基本法を遵守し、上からの命令だけをソツなくこなすティーチングマシーン以外は、現場から排除されることになる。法規を守らない規格外教員は廃棄処分にされる。そうならないためには、命令系統を伝達する一歯車として自己を自覚し、上からの命令=「法令」を、ソツなくこなす=「執行する」ほかない。同論考で紹介されているシリアスな言葉からみてみよう。

 それらは、「三〇年のベテラン教師と競争を強いられる新採」、「勤務時間内で終わらない、仕事量の多さ」、「教員評価が気になり、実情出せない」といった見出しにまとめられるものである。2ページにわたって紹介されるこうした教員のうめき声を分析し、そこに尾木氏は、「同僚性」の欠如を指摘する。尾木氏のいう「同僚性」とは、教員同士が助け合い、声をかけ合い、協調性を持って仕事をする連帯意識であり、多様な資質能力を持った教員同士がスクラムを組んで学校を豊かな教育の場に変えていく力そのものであろう。この力がゼロにまでなったとき、あの新宿の、若き教員の自殺があったといえるのではなかろうか。これでは、厳しくいえば、自殺か他殺かわからない。

 「同僚性」と尾木氏が呼ぶヨコのつながりが、教員評価、人事考課制度の導入によってズタズタにされ、代わってこの「評価」によって教員間をとり結ぶところのタテの関係が、学校現場を貫徹することになる。児童生徒を指導するにしても、保護者対応をするにしても、結局その指導が良好なのかどうかが管理職にフィードバックされる。そのフィードバックの仕方も、評価対象の教員にあるいはみえ、あるいはみえない形でなされるのである。しかもその評価によっては「指導力不足教員」の烙印を押される結果となるやもしれないし、「減給10パーセント」といった生活に直結する仕打ちを喰らうかもしれないのである。

 風声鶴唳に怯える教員に、すっと伸びきった、フレッシュな指導など、学習指導であれ、生徒指導であれ、できるものだろうか。まさに、「人事考課制度が、目的とは正反対に教師たちを孤立させ、『子どもの成長のため』にではなく、『評価されるため』にポイントを稼げる仕事をする人間へと変質させている」といえよう。

 学校が評価のモザイクであることは否定できない。教員が生徒を評価し、教育課程が教員によっても、家庭によっても評価されてきたように、これまでもそうであった。それがいまや教員が生徒を評価すると同時に、アンケートの形をとって生徒から教員が評価されるし、家庭が教員を評価し、管理職が教員を評価する。地域も然り。第3者評価機関の設置までささやかれている。

 してみると、いまや教員に対する評価の体制が、他の職よりも突き抜けているように思えてならない。この評価制度が労働法制とどのように関連しあうのだろうか。むつかしい。たしかに企業においてもホワイトカラーエグゼンプションの導入が話題になっているように、厳しい労働環境にあるし、非正規雇用の問題がある。教員にも「しっかりせよ」との発破がかかるのは、別段、問題ではない。だが、教育公務員の世界は、一般企業の世界ではない。一律に、一般企業的な労働思想を適用し、うまくいくのかどうか。ストライキも許されない世界である。製品を作るのではない、人間を作るのが仕事である。

 教員が、自己の思想・信条に基づいて、今まで培ってきた社会観や世界観から児童生徒に直接責任を負って教育を担当するのでなければ、いま流行の人物重視教員採用試験をする意味もないだろう。多様な個性を持った人材を育成するのが公教育としての学校の使命なら、多様な資質、多様な考え方を持った教員が集まる学校でなければ、その目的を達成することはできない。上からの命令に対し、健全な批判的意識を持つことなく、従うばかりの教員が、豊かな人間性を持ち、自分の頭で考える児童生徒を育成できるであろうか。

 よく、「規範意識の形成」という。これは簡単に翻訳すれば、ルールを守る、反社会的行為に及ばないように指導するということだろうが、暴力をふるう児童生徒をたしなめ、社会秩序を自覚させるのは当然だとしても、自己実現の道すら自分で模索しない、あるいはさせない、従順すぎる人間を育成する方便に、この「規範意識の形成」が使われているような気がしてならない。

 教員も、体制に都合のいい法令を順守する「規範意識」を身につけるよう、踏み絵を実施されるわけである。教員のロボット化である。この法令順守は「長いものには巻かれろ」的に教員採用試験の受験生にも感覚される。どれだけ受験生がその手のものに敏感であることか。教員組合の臨時採用教員部にさえ、参加するのを怖がるのである。とにかく平身低頭、批判なんてモッテノホカ、採用されるためには従順な姿勢であることを自治体に印象付けたい。それが教員を目指すものの姿勢一般である。悲しい。なかんずく、都がそうした態度を要求する一番手である。

 尾木氏の、「すでに教員採用試験の倍率は、その不人気から小学校では、かつての十数倍の高率から四倍程度にまで落ち込んでいる。とりわけ、管理・統制が厳しい東京などでは、二倍すれすれになっている」、「学生も異常なほど非人間的な職場には参入しないのである」との感覚は、教員を目指しチャレンジするもののなかなか受からない立場からすれば、「えぇ、ウソだろう」との感想を持つかもしれないが、客観的にはそうである。それを示すのが、上の各教員の告発文である。

 教職は、いまや「不人気」職なのである。今後も、いまのままでは一層そうなっていくし、教育再生会議的方針で進めば、事態は悪化するだろう。安定した職だと思われる教職が、免許更新制の導入で身分的にあやうくなり、人事考課制度によって給与も成果主義になる。給与面の安定は昔語りになる。分限処分もますますその数が増えていくだろう。

 だが、この教職が「不人気」という尾木氏の見方も一面的であることを伝える記事がある。それを掲げておく。2006年12月に実施された「教員意識調査」についての『毎日新聞』の記事である。記事の見出しは「会社員以上に、仕事に満足感と多忙感」である。

 公立小中学校の教員は会社員よりも仕事に満足感を得ていると同時に、多忙感も感じる傾向にあることが11日、文部科学省の調査で分かった。また、教員自身は勤務実績などで給与に差をつけることを否定的にとらえているが、保護者は肯定的ということも分かった。
 文科省は10月、全国354校の公立小中学校教員8976人(回収数8059人)と保護者1万4160人(同6723人)を対象に意識調査を行い、平均点を算出。中央教育審議会の「教職員給与の在り方に関する作業部会」に中間報告した。
 中間報告によると、「仕事にやりがいを感じている」と答えた教員が5点満点で平均4.23点だった。一方、「仕事が忙しすぎて、ほとんど仕事だけの生活になっている」のは3.75点となり、調査会社が所有している会社員のデータと比較すると、教員は会社員よりも満足感と多忙感を同時に感じているという。
 また、「指導力不足教員らに給与などへの反映が必要」と考える教員は3.37点。保護者への同種の質問では4.41点となり、両者のかい離が際立った。

 不人気職と尾木氏は断じたが、それなら上の記事にあるように、会社員より満足感を感じることはないだろう。昨年12月の統計である。現職教員が多忙に苦しみながらも、満足を感じているなら、まだ救いがあるというものである。しかし、尾木氏の表現が、将来を見越してのものであると読み込めば、それは正しい感覚といわなければならない。

 上にみられる数字は、どんどん低くなるだろう。学校に配属されてサクラが散るまでに辞める新採もいる。理想に燃えて教育するぞと意気込む若者が、「非人間的な職場」たることを実感するのである。はいってみなければわからない、しかし、はいってからわかっては遅すぎる。校庭に骨を埋める覚悟を持っていなければ、教職はつとまらない。教育実習で、学校のいいところばかりをみるのではなく、腐ったところを直視するのも、教員をめざすものには不可欠である。

 少し前に、テレビで「いい教員と悪い教員と見分けるために、給与を半分あるいは全額返上して、つとまるやつかどうか調べたらいい。それでわかる」というニュアンスの言葉をノタマッタ馬鹿な教員がいたが、そんなことで教員として適格か、不適格かなどわかるはずがない。先従隗始、そう嘯くご自身が、無給でやってから吐くべき言葉である。

 現場に「同僚性」が花開き、児童生徒のみている星と同じ星をみることに努力する教員、これが求められている。

4 深刻な精神的ストレスに苦悩する教員たち

 仕事があるのは幸せである。しかし、仕事があり過ぎるのは不幸せである。汲めども汲めどもつきない、滾々と湧く知恵の泉ならば我が家の庭にもほしいが、やればやるほど雪ダルマ式に増殖する性質の仕事には、はまりたくない。

 命がいくつあっても足りないのが、教職に就くものの定めなのだろうか。上の第3節において、教育現場の多忙化が告発されているのを、尾木氏の紹介から知り得たワタクシたちであるが、次の高橋誠氏の分析が、それを統計的に立証する。「深刻な精神的ストレスに苦悩する教員たち 『教職員の健康調査』の結果が意味するもの」を寄稿された高橋氏は、この健康調査そのものの実施者の一人である。

 この寄稿は、多忙感がストレスを生み、「壊れていく教員」予備軍の存在を数字で示してくれるという点で、教育行政に携わる人びとに是非とも読んでもらいたい。多忙は仕事の処理量の多さから個々の先生に実感されるわけである。だが、その仕事の性格も、昔に比べて変質している。その変質が多忙の中で「喜び」を感じず、「苦悩」を感じる源泉となる。

 その「苦悩の源」を労働心理学の専門家たる氏は、「教育活動をとりまく環境」、「学校運営と職務遂行の仕組み」、「仕事と生活への影響」の3領域に範疇化し、その原因を分析してくれている。児童生徒とコミュニケーションをとりにくくなっている現場は、容赦なく教員にストレスを与えるし、保護者の教育要求を捌けず、これも「教員の反省」という形でストレス化する。校長から指示を受けた仕事もこなさなければならないし、これって、「教育」と関係あるの?と疑問を感じることにも時間を割かなければならない。いつでも居残りして学校で仕事ができるように、学校の鍵をすべての教員が持っているのかもしれない。我が家の鍵と学校職員室の鍵と。いつ帰宅できるかわからないからである。深夜に職員室の鍵をかけ、警備員さんに「さようなら」というとき、もう夕日は沈み、漆黒の闇である。

 そうした仕事群が、学校にいるときにだけ課されるのではなく、持ち帰りの仕事として教員の生活を圧迫する。小テストの丸付けや連絡帳へのコメントなど、深夜に及ぶケースもあろう。その犠牲が、拙稿でも何度も紹介している新宿区の女性教員であった。

 高橋氏の寄稿から、そうした教員の苦しい実態が浮かび上がる。そこで考えたいのは、「教員の自己実現」とは何か、ということである。なぜなら、数字にあらわれる苦しみは、自己実現によって解消されるに違いないからである。

 もともと、たくさん給料がほしいとか、出世したいとか、名声がほしいとか、処世術に長け、経済を求めて教職に就こうとする人間は少ない。ただただ子どものためとか、子どもの成長をみるのが生きがいでとか、そうした心情的なところに喜びを見出すのが教員である。しかも教員は児童生徒に物事を教え、自分を乗り越えていってほしいと願っている。教育者は社会において捨石であることを自覚したとき、自分の仕事によってつぶれていくことがなくなるわけである。汲めども汲めども、なくならない。浸水した船のような存在が教員であろう。そしてそうした状態に嬉々として立ち向かっていけるバイタリティが求められる。

 沈没するタイタニックに乗船したいもの、それでなければ教員とはいえない。本当に沈んでしまうこともある。学校選択制によって廃校の憂き目にあうことを想像せよ。

 再度、問う。教員の自己実現とは何なのだろうか。数十年経ったときに同窓会で「ありがとう」といわれ、その感動的なシーンが「教師冥利に尽きる」という言葉で表現される。これが、自己実現なのだろうか。自分の教え子が立派になって社会で活躍していることを確認するのが自己実現なのだろうか。そうだとすれば、それは他者の自己実現を通してしか自己実現できなくなることを意味するだろう。

 人の成功を心の底から喜ぶことのできる人間でなければ、教職には就いてはならないことになる。卒業式におのずと涙が流れる人間、感動する心を忘れていない人間こそが、教員に向いている。現実主義者は教員世界では生き残れないのではないか。

 そうした意味では、社会人経験を持つ教員を採用したいと計画する文科省や自治体は、立ち止まってちょっと考えなければならないのではないか。全教員の2割を社会人出身にしたいと意気込むが、それが現場にどんな影響を与えるのか、採用する側は予想くらいはしてほしい。9時5時でないことを自覚し、現場に臨む教員を採用しなければならない。このあたり、民間人校長であまりうまく学校運営ができていないのをみれば、ちょっと心配にもなる。大阪府立高津高校校長の例もある。

 企業的経営が学校世界に適用されつつある現実が、多忙感として教員にあらわれているのであろう。

5 東京都教員匿名座談会

 匿名座談会を読み終えてまず感じたのは、「本末転倒」とはこうした東京都の事態を指すのだなということである。岩波『世界』2007年2月号で、小・中・高校の先生方が集まって自由に語られたのを文字に起こしている「東京都教員匿名座談会 いま教育現場で何が起きているのか」は、都下の教育の実態を生々しく報告してくれる貴重な証言集といえよう。

 できれば実名で発言してほしかったが、そうすればクビを覚悟しなければならないので、無理はいえない。立派に仕事をやり遂げ、定年をお迎えになられたときに、「あれは私です」とカミングアウトしていただくのを期待するほかない。参考として、このページをリンクしておこう(http://tvf2007.jp/movie2/vote2007.php?itemid=110)。

 座談の形をとっている性格ゆえ、論理的に文章が綴られているわけではなく、同じ話題が場所を違えて何度も出てくる嫌いはあるが、都に対するシリアスな告発がつづくという意味では、現場の悩みが表出されていて興味深い。都以外に住むものも、自分の自治体と比べながらある程度理解を示すことができるし、「それほど都はひどいのか」とため息をつきながら、「あすは我が身」と連帯意識を感じ、共闘の意を強くする都外の先生方も多いことだろう。

 この座談を読めば、これまでワタクシたちが読んできた『世界』の各論考が指摘する問題点と、先生方の各発言が符合し、具体的に先生方の思っていること、悩んでいることが、教育の大きな枠組みの中で理解できるのである。

 第1節「急増する新規採用」は、大量採用時代といわれる現在の採用状況の裏で、仕事をやり遂げ定年で辞めていくのではなく、石原ティラニーに憤慨し早期に辞めていく実態が告発される。退職が増えると補填しなければならないのはどこの世界でもそうだろうが、それが新採の大量採用となってあらわれる。新採は、1年目は条件付採用だから、初任者研修に従事しなければならない。すると、初年教員は学校における自分の仕事をやむなくほっぽり出して研修センターなどに通わねばならず、手薄な学校がさらに手薄になる。

 座談の登場人物B先生が、中学校で新採は担任を持つことはないと述べているが、大阪では持たされているところもあるので、ほほう、そうなのかと思った。「上からの研修」に参加し、その「書類書き」の多さから、責任持ってクラス担任を担当させることができないとの配慮がどうしても現場では働くわけである。これはしかし、教員同士が互いにカバーできる環境にないことを告白しているともいえる。しかし、それは、教えたくなくて教えないのではなく、先輩の先生方の仕事の多さゆえに、そこまで手が回らないからである。しかもそこに、人事考課制度の魔の手が伸びる。ここには、尾木氏のいう「同僚性」の欠如が、見事に語られている。

 それは、第2節の表題が示しているところでもある。「職場の絆が断ち切られた」とは、そういうことであろう。以下、ワタクシの感想をメモ的、箇条書き的に示す。

 石原圧政の下、2000年4月の人事考課制度導入、同年8月の「心の東京革命行動プラン」(http://www.metro.tokyo.jp/INET/KEIKAKU/SHOUSAI/70A8B100.HTM)、同年12月の「東京構想2000」(http://www.metro.tokyo.jp/INET/KEIKAKU/SHOUSAI/70ACL100.HTM)と矢継ぎ早に行政方針が示され、B先生は苦悩しているようだが、なぜそれが教員に苦悩をもたらすのか、もうちょっと話をしてほしかった。

 なお、文中132ページの「国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について通達が出」とあるのは、おそらく、2003年10月23日の通達「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」(http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2003/10/20dan400.htm)を指すと思われるのだが、違うのだろうか。もしそうなら、『世界』の書き方では、年代的に不自然だと感じたので一言する次第である。「実施」と「指導」は違うわけだが、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について」(http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/03/20g3e100.htm)を指し示すものだとしても、2006年3月13日である。

 つづいて、東京教師養成塾出身の教員すら、学級運営がうまくいかず、崩壊したとのA先生の指摘は、同塾出身者には申し訳ないいい方ながら、小気味よく感じた。エリート的教員養成で、多様な家庭環境から通学してくる現場の教室運営ができるものか疑問に思っていたからである。教育は、そんな簡単にいくはずがない。今後も同養成塾出身の教員が、どれだけの成果を挙げるのか、都は自らチェックし、塾外の教員と比較するべきであろう。

 このように色合いの違う教員が混ざりつつある状態が、いまの都の教育現場であると思われるが、それが一色に染まり切ると危ない。なぜなら、「管理職と教員を含めて、みんなで力を合わせて、信頼関係の中で学校教育を成り立たせていこうという絆が断ち切られている」状態に拍車がかかるからである。

 政治学において、「抑圧委譲」というウルトラナショナリズムの分析で使用された有名な術語があるが、「校長は校長で教育委員会を意識して自己保身に走る…それぞれがみんな、自分の蛸壺に入って、自分の身を守ろうとする」とは、そういうことではないか。抑圧委譲はゼニカネに絡んで一層ひどくなる。それが第3節のひとつのテーマとなっている。

 第3節「『人事考課制度』とは?」は、東京都の給与体系に不案内であったワタクシとしては、興味津々であった。5段階あるいは4段階で評価付けられる教員は、評価に応じ特別昇給を受けたり、それがなかったり、定年退職するときには退職金の高もものすごく変ってくるらしい。都の「退職金の案はポイント制」(B先生談)として制度化されるらしく、ヨドバシカメラもびっくりである。カネがすべてだとはいわないが、同僚間で数百万単位で生涯獲得賃金が変ってくるとすれば、なにかしら考えもしよう。昔の漫画の決めゼリフにあった「生涯一教師として」は夢となる。ヒラのままでは一生給与が上がらない仕組みを、都は作ろうとしているからである

 特別昇給査定としての人事考課は、管理職に対しても、厳しい指導として展開する。都教委は、すさまじい。B先生によれば、「管理職に対する教育委員会からの査定はさらに露骨で、彼らはAからEの五段階評価で、DとEにランクされた管理職からボーナス時に五千円、一万円が徴収され、AとかBに回される」そうで、これでは「特色ある学校」ではなく「督促ある学校」となり、変な意味で各学校の競争は激しくなる一方だし、いわゆる組合系の校長会など機能しない。これだけ、都の懐柔策が厳しく貫徹すれば、寄生虫が親木を倒してしまうような事態にならないかどうか。

 校長と各教員がサシで向き合い自己目標と自己評価をするのは他の自治体でもほぼ同じで、これが教員間の「同僚性」を破壊するのも同一であろう。後の節で指摘されるように、「人事考課が出て何か変ったかというと、それまではみんな集団で管理職と対応していたのが、一学期に一回ずつ一対一で面接が入るという形になったことです。そういう中で次第に関係性が変わり、寒々とした状況が生まれてきたのですね」なのである。

 たしかにこれでは「管理職のなり手がない」(第4節の表題)。とりわけ新しく都が設置した「主幹」のなり手がないことをA先生は指摘する。先生方が嫌がるこの主幹制度については、是非この『世界』を手にとり、確認されたい。また、C先生の語る、離島に飛ばされた校長の存在も悲しすぎる。管理職そのもののストレスも大変で、「死んでしまった人もいるし、鬱になった人も帰り道で倒れた」とAさんは同情を寄せる。

 第5節「長時間勤務と自主研修」では、学校における拘束時間の一時間延長が主たる話題となる。たしかに教職の特殊性からいって、他職のように1時間丸まる自由時間になることなどありはしないし、できない。給食の指導もせねばならないのだから。

 本当に教員が皆で昼休みをとるなら、午後の授業の開始・終了も後ろにずらさなければならないし、部活や生徒の放課後の活動にも影響が出る。それに昼休みだといって職員室を閉めて休憩をとったら、学校はどういうことになると思っているのか。

 このあたりの都の姿勢は「官僚体質」を露にしており、「お役所」的態度を学校世界に適用しようとする無理な要求であろう。都の教員がおかれた立場を思うと涙が出る。いっそ、反乱を起こしてはどうか。だがそれも、指導するかわいい児童生徒のことを思えばできない。集団退職もできない。ポツリポツリと消えていくように早期退職するほかないのかもしれない。真綿で首を絞められるような都教育行政である。なるほどこれでは、「教職は不人気」と他の『世界』論考でたびたび指摘されるのも故なしとしない。

 研修についても、組合系の自主研修参加が制限され、官製研修への参加以外に認められなくなってきているらしい。そう語るAさんは、「教育の力がガクッと落ちてきた」と憤る。官製の研修の中身の公表をするべきではなかろうか。

 第6節の表題は「すべてで格差が」であり、さきの特別昇給でもそうだった。このほか、論旨を追うと、次のようである。教員の配属にも「格差」が発生する。中高一貫校にいける教員といけない教員。生徒の方でも「格差」が進む。公立中学校の選択制は、希望校にいけない生徒を産む。特別支援学校でも選別体制が進んでいる。

 「日の丸・君が代強制の意味」では、「仕上げ」という言葉が使われていた。この第7節を読んで、都の教育支配の駒になり、服従する教員かどうかが、教員として生きるかどうかを決定する指標になっていると感じた。この傾向は、教育基本法改悪によって全国を網の目にかけることに必ずや、なる。

 Dさんの鋭い指摘として、「学校では生徒の人権が小さいんです」、生徒に対する頭髪検査も厳しく、「規律を守るためにはやむをえない、という発想が強くて、生徒の人権が大きい学校にしていこうと言う発想をなかなか教員がもてない」という表現には、学ぶべき価値がある。

 権利の主張や自由と責任の関係性を完全に自覚できている児童生徒は少ないだろう。だが、子どもの権利条約に謳われているような権利が、たしかに児童生徒には保障されなければならないのであって、こうしたディメンジョンで、学校のスタンスが、通達ひとつで簡単に変更されるようにでもなれば、児童生徒は何を信頼していいのかどうか酔ってしまうだろう。

 だが生徒の人権が小さいぞなどと面と向かって都にいえば、都の姿勢に楯突いて離島に飛ばされた現実をこうむることになる。

 教員は思考を停止させる。だんだんだんだんものを考えず従うだけになる。そうした人間を都は欲しがる。そして、そうした都の色で染め上がった学校がどしどしできあがる。

 そこでは「自ら学び、自ら考え、問題を解決する資質能力」(学習指導要領)など児童生徒に育成できない。B先生の次の発言と、ワタクシは少し違うところもあるが、現代教育に対する警鐘句であるといえよう。

 自分で考える子どもを教育することに対して、権力が本気で危機感を持ったのではないか。自分で課題を見つけ、自分で解決する。自分の足で立つ人間を教育しようとするわけで、そんな人間が出来てしまったら、鋳型にはめていけなくなる。総合学習は、いろいろ問題はあるけれども、様々な実践が試みられてきている。それに対して、学力が低下したという曖昧な理由をつけて叩き潰していく。そして強引にもとの世界に戻していく力が働いたのだと思います。

 あらゆる事柄を強制的にさせられる、それに耐えられる耐性を植えつけられていく現実をB先生は告発する。教育を介して、脆いロボットではなく、きわめて従順、かつ、ちょっとやそっとでは潰れないロボットを作ることに、本気で乗り出す体制を厳しく批判するのである。

 そこから抜け出すには、「子どもたちとどう向き合うか」(第8節の表題)を真摯に考えるほか、道はないといえよう。

6 「教育基本法体制」をどう超えるか

 日韓合同授業研究会の創設者、主宰者にして、総合学習の実践的研究者でもある善元幸夫氏の寄稿「『新教育基本法体制』をどう越えるか 日韓合同授業の試みを通して」は、日本の教育状況の右傾化に危機感を覚え、この右傾化がどのようなプロセスを経て膨張してきたのかを「授業報告」を紹介しつつ考察する。そして、どのようにすればアジアの近隣諸国、ここでは韓国との誠実な友好関係を結び、互いに理解しあえるかを議論した上で、「新教育基本法体制」を批判的に乗り越える道を模索しようとする論考である。

 一言でいえば、民族対立を止揚することによって「新教育基本法体制」を超える、ということである。

 本来、寄稿の順を追って全編を評するべきかもしれないが、今回、議論の中心にしたいのは、寄稿の表題にある「新教育基本法体制」とは何か、ということである。これが定まらなければ、結局全編を評することができないからであるし、寄稿を読んで、ここが最も論点を含んでいるように思われるからである。

 善元氏は、改正前教育基本法の教育の目的が「人格の完成」であったことに対し、中教審の議論を経て改正された新しい教育基本法における「教育の目的」が、「国民の人格の形成と国家・社会の形成者の育成」という並列的な記載になっていることを問題視し、「『個人の人格完成』」を軽視する日本の教育を深く心配するのだが、実際に、答申はどう語っているのであろうか。

 善元氏は、単に「2003年」と記入しているだけだから、参照した中教審答申は、同年3月の「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」(以下、「2003年答申」と略記する)なのであろうと思われる。引用の出典が明記されていないので、そう推測するほかない。2003年答申では、善元氏が問題にする該当箇所についてどのように説明しているのか。以下は、2003年答申・第2章・2の「具体的な改正の方向 (1)前文及び教育の基本理念」からの引用である。

(教育の基本理念)
○教育は人格の完成を目指し、心身ともに健康な国民の育成を期して行われるものであるという現行法の基本理念を引き続き規定することが適当。
 教育基本法は、「教育の目的」として、
(@)教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として、心身ともに健康な国民の育成を期して行うこと、
(A)このような平和的な国家及び社会の形成者として、「真理と正義」、「個人の価値」、「勤労と責任」、「自主的精神」の徳目が求められること、
 を規定している。
 そして、この「教育の目的」を達成する上での心構え、配慮事項を、「教育の方針」として規定している。
 このような現行法に定められた基本理念(教育の目的及び教育の方針)は、憲法の精神に則った普遍的なものであり、引き続き規定することが適当である。
(新たに規定する理念)
 さらに、制定から半世紀以上が経過した今日において、現在及び将来の教育を展望した場合、特に掲げて強調すべきと考えられる理念として、以下の事項があり、その趣旨を教育基本法に規定することが適当である。

 ここをみれば、「現行法の基本理念を引き続き規定」とある。「国民の人格の形成と国家・社会の形成者の育成」との2点に分けているとは理解できない。どうも善元氏の指摘はおかしいといわなければならない。『世界』146ページの引用は、一体どこからの引用なのだろうか。そしてこの解釈は、ちょっと強引ではないか。

 それから、「新教育基本法体制」という言葉そのものが、ワタクシは読んでもなんのことか理解できなかった。たとえば、「明治憲法−教育勅語体制」であるとか、「日本国憲法−教育基本法体制」というような両輪揃った表現なら理解できる。つまり、「体制」という言葉につまづいたのである。教育基本法が改正されて1ヶ月あまり、こうした「体制」が存在するのだろうか。善元氏は、これをきっちり定義する必要があったのではないか。なんとなくわかるようで、その実、わからないからである。文科相伊吹氏の「新しい教育基本法は自民党憲法草案との整合性を踏まえている」発言からいって、「新憲法−新教育基本法体制」は政府領袖には意識されているけれども、これはまだ現実ではないし、現実にさせてはならない。ワタクシは、今次の改正は改正ではなく、改悪であると思っている。その点では人後に落ちない。だが、「体制」といわれても困るのである。

 それゆえ、推測を交えてワタクシなりにそれと思うことを述べれば、こういうことだろう。「新教育基本法体制」とは、「個々人の人格完成よりも、国家・社会の形成者としての人間育成を重視し、子どもの学習を保障しない教育の新自由主義的な制度つまり市場主義的学校制度を用意して、国家主義を叩き込む教育体制」である。

 もう少し厚くいえば、「新教育基本法体制」とは、「国家・社会の形成者としての国家従属的人間育成を優先し、自ら学び考えるよう子どもが主体的に学習する権利を保障せず、新自由主義思想にのっとって学校選択制など市場主義的学校制度をどんどん用意し、国民に国家主義を注入するべく公共心や愛国心を叩き込むことを内容とするために、学校教育法改正、地方教育行政法改正、教育職員免許法改正をセットで実行し、それらを包括する悪しき理念法として教育基本法を頂におく体制」であるかもしれない。あくまで推測である。

 ところで新旧両教育基本法は、どのような表現になっているのか。

 旧法(昭和22年3月31日法律第25号)第1条は、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」である。

 これに対し、新しい教育基本法(平成18年法律第120号)の第1条、教育の目的の条は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」である。

 「必要な資質」の中身が何であるかの議論はある。すなわち、上で引用した「現在及び将来の教育を展望した場合、特に掲げて強調すべきと考えられる理念として、以下の事項があり」の「以下の事項」、つまり、社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養を教育基本法に込めていいかどうか。日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養など、理念法的位置付けにある教育基本法に挿入していいのかどうか。そのほかにも論点(生涯学習の理念、時代や社会の変化への対応、職業生活との関連の明確化、男女共同参画社会への寄与)があり、それらを個別的に撃つべく問題にするのであればわかるのであるが、2003年答申の思想がどういう意味で「『個人の人格形成』の軽視」として侵入しているのであろうか。

 ところで「国民の人格形成」と「国家・社会の形成者」の併記は、最近の中教審答申「新しい義務教育を創造する」(平成17(2005)年10月26日、以下、「2005年答申」と略記する)の「総論」の中で、「義務教育の目的・理念」を語っているところにワタクシは確認している。

 2005年答申では、現代日本社会のおかれている時代状況を、「変革」、「混迷」、「国際競争」の3つのキーワードのもとに捉え、だからこそ一人ひとりの国民の人格形成と国家・社会の形成者の育成が義務教育の役割であると断ずる。

 この2つの視点つまり「国民の人格形成」と「国家・社会の形成者」は、いつの時代でも変わらない教育の目的、理念であるとし、その課題に答えるべき国の責務は、義務教育の根幹としての@機会均等、A水準確保、B無償制を保障することであると答申はいい、その保障によって揺るぎない国家・社会の存立基盤を形成することができると予定調和的である。

 こうした2つの義務教育の目的に照らせば、学校は、知・徳・体のバランスのとれた質の高い教育を全国どこでも提供し、安心し信頼して子どもを託すことのできる場でなければならず、地域格差なく一定水準以上の教育を国民に保障する義務教育制度の充実こそが、「格差の拡大」、「階層化の進行」を防ぐ「セーフティ・ネット」であると答申はまとめるのであった。

 この2005年答申が、「国民」の「人格形成」というように、「個人」の「人格形成」ではなく、もう少しはっきりさせていえば「国民『としての』人格形成」を教育に期待する意図を持っているのが理解できる。と同時に、社会格差解消策として教育の意義を捉え、これにまつわる世間の批判に応答した論理を展開しているのが、「セーフティ・ネット」との文言を使用していることからわかる。ここから読みとれるのは、国際人や世界人としての人間育成を「人格形成」の主目的にするのではなく、個別的な国家的価値を身体化する目的が込められているということである。

 さて、善元氏は、「新教育基本法体制」は、「国家主義」的であると述べる。一般的には、個人の行為行動よりも国家の意思を尊重し、国家の行動を優先する態度、また、国際関係の中で国益獲得にプライオリティーをおくのが国家主義であると思われるが、おそらくここでは前者の意味で、「教育基本法改正の中心は、教育を個人の『人格完成』から『限りなく国家主義的傾向の強い』ものへとシフトしている」との認識を善元氏は示しているのであろう。

 これを乗り越えるために、氏は、日韓合同授業研究会を、12年も指導されてきたのである。すなわち、この国家主義的な「新教育基本法体制」を越えるひとつの手段こそ、韓国と日本との授業実践報告を媒介にし、民族的な軋轢を取り去ることにあり、「民族主義歴史教育を超えて」、相互理解と相互尊重を進めるような土壌を耕すことにある、と努力を重ねておられるわけである。

 韓国の先生の、「歴史において民族主義や国家主義の観点から抜け出せないなら共有するものはないと思われる」との結論に学び、ワタクシたちは古い枠組みから飛び出そう。アジアが過去を総決算し、紐帯できうる思想の発見を、この「日韓合同授業研究会」に期待したい。その発見されるべき思想的紐帯が、韓国のすべての人びと、日本のすべての人びとの意識にのぼり、誤った反日感情や嫌韓思想を是正する力になることを願ってやまない。

 ワタクシも、“The Congnest of Happiness”を読んでみようと思う。

7 新人女性教諭自殺

 『世界』2007年2月号・教育特集は、二つのルポを掲載している。その一つが、星徹氏による詳細なレポート、「新人女性教諭自殺 学校現場に不幸をもたらす『教育改革』」である。

 遺族代理人弁護士の川人博氏、山下敏雅氏の記者会見配布資料を基礎資料とし、そこに、星氏渾身の取材ノートが重なって、臨場感あるルポとなっている。事件の表層ではなく、ワタクシたちが知りたい深層部分を伝えてくれている。「知る権利」が満たされた気持ちである。ただ、知れば知るほど、悲しくなる。たとえば、ルポの最後のページに掲載された故女性教諭の父母の手紙などは、ワタクシたちの胸を詰まらせるに余りあるものである。ここでは、その引用を差し控えることによって、星氏のルポを尊重しつつ、この雑誌がより多くの方の手に落ちることを期待する。

 たった2ヶ月ばかりで、自殺によって教員生活に終止符を打たねばならなかった岡野さん(故女性教諭・星氏のつけられた仮名であり、ここでもこの名前を使わせていただく)の事件は、決して他人事ではない。都下のすべての教員に降りかかっている多忙性、管理職ひいては教委からの、また、保護者からの無理な教育要求などなどが、この事件を引き起こしたといえる。単学級の担任であったこと、校務分掌の分割担当ほか、岡野さんの立場に立てば、誰しも潰れてしまうであろうことは、想像に難くない。自殺といっていいのだろうか。

 岡野さんが、「無能」、「無責任」なのでは決してない。こうした絶筆を残されたワタクシたちは、今後、どんな道を歩けばいいのだろうか。

 これまでも、学校、家庭、地域社会の連携が叫ばれ、昨年末に「改悪」された教育基本法にも、その理念が盛り込まれたが、連携は機能していたか。まったくそうではない。

 学校としては、しかし、精一杯の支援をしたのであろう。たとえ、「新任教諭の指導担当に一年生の担任教諭をあてること自体がおかしい」とささやかれる中、指導教官的なことをほとんどしなかったこと、つまり「ちょっと話を聞いてくれるくらい」であったことや、そうした無理な充て職を校長が「一年生の担任教諭」に任命したとしても。無理に教科担任制を導入しようとしたツケが回ったという意味で、校長に責任の一端があるかもしれないとしても。いまさら、この指導教官や校長を責めても仕方がないが、学校組織としての指導体制の見直しは避けられない。

 公務員にストライキ権はない。だが、労使の関係において労働三権が憲法で保障されているのであるから、市場原理的教育体制を都が実行するのであれば、もうそろそろ、教員にも同盟罷業の権利を認めなければならないのではないか。そうでなければ、教委や管理職と“対等”の立場に立って必要最小限度の要求もできない。

 “対等”といったが、それはなにも争いに興ずることを目的とするものではない。信頼関係ある人間として対等な話し合いが要請されるわけである。それがなく、上からの一方的な差配だけが支配するいまの教育行政と現場との関係性は、イビツというほかない。

 現場を知らない反省が、官僚にも、ようやく意識されたようである。

 文部科学省は、深刻化するいじめの問題や学力の低下などに対応して新たな政策を打ち出すには、教育現場の現状を的確につかむ必要があるとしています。このため、文部科学省は、幹部候補となるいわゆるキャリア官僚らを、ことし4月から1年間、中学校に派遣する取り組みを始めることになりました。派遣するのは20代後半から30代前半で教員免許をもつ数人で、派遣先の中学校でベテランの教員らの指導のもとに教壇に立つほか、クラスの副担任として生徒指導や進路指導などにあたるということです。文部科学省によりますと、キャリア官僚を採用後に都道府県の教育委員会に短期間派遣して研修させる制度はありますが、長期にわたって学校に直接派遣するのは初めてで、結果をみたうえで段階的に派遣する人数を増やしていきたいとしています。(NHKニュース・2007年2月15日)

 家庭はどうなのだろうか。高級住宅地を校区するこの小学校に対し、そして岡野さんに対し、無理難題を要求し過ぎなかっただろうか。大卒ホヤホヤの「イラスト大好き!」と子どもたちに自分を紹介する23歳の女性、新人の女性教諭が、保護者を見下すなどあるのだろうか。もっと、もっと、あたたかく見守ってやれなかったのか。

 初任研の結果、正式採用するかどうかのいわば「生殺与奪権」は、校長が握っている。校長は、保護者と岡野さんとの間に立ち、防波堤となって、「絶対大丈夫だから」と、法的に問題があったとしても、一言いってやれなかったのか。他方、教員組合は、学校世界にまだまだ疎い新人教諭に、たとえ組合に入っていなかったとしても、支援の言葉を掛けてやれなかったのだろうか。

 いや、そのすべてとはいわずとも、少なからぬ支援があったのであろう。

 地域社会は、なにか岡野さんをサポートしたのだろうか。

 理念を条文化しても、そこに魂が入っていない。教育基本法を改正して、いじめがなくなるのか、学級崩壊がなくなるのか、といった議論があった。これと同じ考え方でいえば、尊い命が散ってはじめて、法が命を守るものではないということが証明された感がある。教育基本法を改正したところで、なんらの効果もない。彼女が自己否定の極みに追い詰められてはじめて、都が「初任者研修のレポートを簡素化した」とは、余りにも小さな改革だが、これが今後の大きな改革へと導く扉となることを願う。それが、彼女を失った「弔い合戦」なのではなかろうか。50台の女性教諭の述べた、「教員であることに魅力を感じない人が徐々に増えている。『教育改革』という名のもとで、教育現場はどんどん荒んでいる」との現状を打破する連帯責任が、残されたすべての教員の双肩にかかっているといえよう。

 星氏は指摘する。「国や東京都が推し進める市場主義・競争主義的な『教育改革』は、学校現場で働く人たちを疲弊させ、児童・生徒の保護者を『わが子主義』の消費者にし、学校教育を表層的で協同性のないものに変えつつある」。これは何も都にだけあてはまる事態ではない。市場主義原理の教育への導入は、都を震源地として、大阪や京都ほか、全国の自治体に広まっていくであろう。

 第2、第3の、岡野さんを、出してはならない。

8 一部自治体がすすめる「師範」養成

 当連載書評「『世界』2007年2月号を読んで」も、今回の第9回目(「教員免許更新制については、すでに別章としてアップしている)で、ようやく最終回を迎える。『世界』の特集の最後をしめくくるのは、熊谷伸一郎(くまがいしんいちろう)氏の力作、「ルポ 一部自治体がすすめる『師範』養成 『教え子を再び戦場に送る』教員の育て方」である。

 新聞の報道や雑誌(註1)では、教員養成塾のよい面ばかりがチラチラ綴られているが、その出生のいかがわしさや、そこに潜む教員養成の姿勢を根本的に批判する記事は、ほとんどみない。もっといえば、チョーチン記事すらもほとんどメジャーに登場せず、出たとしても、「へー、なんで『師範』なんて言葉使うんやろ、いい先生を育てるために、まあ、行政はがんばっているんやな」と感覚する程度の認知を国民に与えるばかりである。

 それに対し、熊谷氏の迫力あるこのルポは、教育の中立性(註2)を忘却した自治体首長の発言や態度にメスを入れ、その実働部隊を批判し、教育行政の一般行政に対する独立性を守護する提言として、最近のマスコミが意図的に無視する教育界の裏面を報道してくれる価値の高い文章である(註3)。

 誰でも知っている三重野康氏、中條高徳氏などは別として、ルポに登場する人物を挙げれば、上甲晃氏、三ッ角直正氏といったように、右翼団体関係者あるいは右翼的な人物である。熊谷氏は彼らにも言及するのであって、それだけ衝撃度が強く、隠れた「教育構造」を丹念に洗い出しているといえる。点と点を結び、偏向的教員養成塾の全貌をなんとか表現しようとする熊谷氏の構想は見事というほかないが、ものすごく慎重な態度も同居していて、それだけ取材対象に対する緊張感が伝わってくる(註4)。

 副題の「『戦場に再び教え子を送る』教員の作り方」についていえば、これが現代の思想的状況を教育の断面から喝破する刺激的なキャッチであるのはよくわかる一方、このように熊谷氏がネーミングしたことを、よくぞ『世界』編集部は許可したなと、ワタクシには感ぜられた。そして、このキャッチを笑い飛ばせる社会的に健全な気候下にあらざることが、思想状況の深刻な振幅を物語る。このキャッチは、深刻な社会情勢から自然とネーミングされて世に出てきた、つまり「出るべくして出た」といえるのではないか。すなわち、国民が薄々おかしいぞと感覚しているなにか得体の知れないものを、誰かが表現してくれないかという「声なき声」が、熊谷氏の筆に集中したということである。もうひとつ、このキャッチには問題性があるのであるが、それは、東京教師養成塾に関連するところで述べたい。

 ところで、師範塾をめぐる大きな問題としては、「同じ土俵に載せていいのかどうか」ということがあるだろう。これはどういう意味かというと、こうである。

 当代一流の総合雑誌『世界』に、体制側の養成塾の存在を詳細に報告すれば、当然ながら、ワタクシも含めて、その存在を深く知る人びとが多くなる。タクティックとして、こうしたまがいものの塾は、本来、無視して朽ち果てるのをみておくにかぎるのであるが、それが許されなくなってきている。首長が音頭をとって件の塾の設立ラッシュにあり、市民派議員や共産党議員が、それぞれの自治体議会でこの動向について質問する現状、つまり、公けの場で、養成塾問題そのものを取り上げざるを得なくなっているからである。こうして触れるべきでない塾どもを『世界』に取り上げるという「同じ土俵」に登らせざるを得ない「くわばら、くわばら」状況なのである。社会が、そこまで右側に追いつめられているということを、この事態は、客観的に、意味するだろう。

 こうした観点からは、大新聞が取り上げないのは、それはそれで逆に一定の意義があるのかもしれない。だが、首長による「行政行為」であるとほとんどみなしていい塾設立とその右翼活動家への委託的運営なので、監視がやはり必要になってくるという「報道したいがしたらしたで焼け太りする」といった、なんとも複雑な相貌に陥っているのである。ワタクシなどの運営するこの弱小サイトで、こうした話題を取り上げることなどは、状況に無関係ではあると思っているのであるが、下手するとそうでないのかもしれない。

 ひょっとすれば、戦前のある一時期も、このようなジレンマがあったのかもしれない。そうだとすれば、ワタクシたちは、「いつか来た道」にもう迷い込んでいるといわなければならない。

 さて、ルポ自体をみていきたい。ここでは、2、3点の指摘をしておこう。

 第1。特攻隊員の遺書を新成人に「よみきかせ」する杉並区長山田宏氏の思想的解剖の記述からルポははじまる。そうした人物が意地でもやりたい杉並師範館は、「戦前のわが国の教育を現在の教育にどのように生かすかの内容」を憂国意識から用意し、それをそこに集う教員志望者に植え付けようとしている事実が指摘される。師範館の性格がはっきり示されているといえる。

 山田氏と杉並区教育委員会の思想的癒着が進行し、教育委員会の独立性はない。しかも、教育委員会メンバーを桟敷席に案内し、教育委員会事務局の人びとを手足のように使いたいといった思惑が山田氏にはあるのだろうと思われる。なんとも嘆かわしい。事務局の人びとを使って、今後も師範館が運営されていくとすれば、これは行政の私物化しかも越権的私物化といってもよく、熊谷氏の指摘するように、「実質的には区の事業であるにもかかわらず、任意団体とされているために、議会や市民の監視やコントロールが行き届かない」。こうした目の届きにくい、グレーゾーンで事態が進行しているところに、独り歩きする行政の危険性を確認できるのである。行政は、歩きやすい道を歩く。

 第2。教育行政の独立性を無視する首長の行政態度は、埼玉県知事上田清司氏も共有するところである。埼玉師範塾と杉並師範館では、前者が現職教員の資質向上、後者が教員のタマゴの育成というような違いはあるが、両者の「師範」育成思想に大差はない。そして埼玉師範塾で育成担当するのが、あの、高橋史朗氏であるという構図を熊谷氏は紹介している。こうした体制側の塾の連帯構造をどうすれば遮断できるのだろうか。

 第3。都の「東京教師養成塾」についても触れられている。この塾には、都下の15大学から学生を集めているそうだが、この塾に入塾推薦する学長がいるということに、もっと注目するべきではないか。もうすでに、同塾出身の教員が170人も教壇に立ち指導している事実は、「『戦場に再び教え子を送る』教員」がそれだけ増えたということを意味するのであろうか。熊谷氏は、このようなレッテルを貼りつけている可能性がないとはいえない。

 同塾出身であることを、170人ほどの教員は、どのように捉えているのだろう。名誉を感じているのか、それとも、十字架を背負ったのか。熊谷氏が同塾出身者のコメントを掲載するにあたり、匿名を懇願するコメント提供者の描写が、このルポにはある。これをみても、自分の立場に苛まれている教員がいるのは否定できない。

 師範館や養成塾は、そんなことは考えないだろう。考えていても、知らん振りをするにちがいない。そういう点では、今後入塾する学生や教員も、かなりの覚悟を持たなければならない。

 この熊谷氏の力作を出発点とし、官製の師範養成塾の動向と、その出身者の追跡調査を継続的に行なうという気の重い作業が、教育関係者に突きつけられている。

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(註1)たとえば、『世界』2007年2月号と、ほぼ時を同じくして出版された『週刊 東洋経済』2007年1月27日号を参照。こちらの雑誌も、教育現場を批判的に検証する立場をとっているといえる。単刀直入に問題点を抉る立場から、足立区や文京区ほか、東京都下の教育長インタヴューが掲載されている。

(註2)教育行政の中立性について、広島県教育長の見解を、あえてリンクしておく。
http://www.pref.hiroshima.jp/kyouiku/hotline/02zesei/sankou/churitu.htm
 また、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(昭和31年6月30日法律第162号)の第4条の3や4を参照。下記に引用する。
「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化(以下単に「教育」という。)に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する」。
「3 委員の任命については、そのうち3人以上(前条ただし書の規定により委員の数を3人とする町村にあつては、2人以上)が同一の政党に所属することとなつてはならない」。
「4 地方公共団体の長は、第1項の規定による委員の任命に当たつては、委員の年齢、性別、職業等に著しい偏りが生じないように配慮するとともに、委員のうちに保護者である者が含まれるように努めなければならない」。

(註3)ただ、熊谷氏は、このルポを、池添徳明氏の指摘を紹介して閉じているが、もうちょっと自説を展開してほしかった。

(註4)たとえば、君が代を「あらん限りの声で、心の叫びのように歌」い、「この人達さえ生き残っていれば必ずこの国は蘇るだろう」と語る中條氏への評価として、「やや『愛国心』過剰なこの老人」と書いている。ここに「やや」は、必要なのだろうか。八木秀次氏の「教育再生民間タウンミーティング」を「冗談」と切り捨てているのとの対比が、ワタクシにはおかしかった。


なお、『世界』岩波書店については、こちらのページをどうぞ。

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