特別支援教育の現状と障がい者施策の将来
−その批判的考察−

はじめに

  小論は、乾いた美文で説得力あるようにみえる制度設計を答申などで示すものの、実際には規模縮小の方向に動いている特別支援教育の現実と、政治によって片隅に追いやられ、今にも切り捨てられそうな障がい者施策の現状を批判するものである。

 「特別支援教育」と「障がい者施策」とは、障がいのある個人にとっては将来的に接続し、共通する問題点を有していると思われる。この2つのリンケージする課題の考察の出発点として、障がい者施策が公教育現場でどのように施策化しているのか検証する立場から、「障がい児教育」=「特別支援教育」そのものの動向を、第1に注視したい。その際、まず、障がい児教育をめぐる用語の使用法について論議する。なぜなら、用語の使用法は、その具体的中身を批判・検討するきっかけになるからであり、また、それに鈍感であった教育行政がどのように態度を変化させたのかを探るためでもある。ここで述べられる用語の使用に対するコメントは、障がい者、障がい児にある程度、共通するものである。

 それゆえ次に、特別支援教育をめぐる動向を、特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議「今後の特別支援教育の在り方について」(最終報告)平成15(2003)年3月28日<以下、「協力者会議」および「最終報告」と略す>、中央教育審議会答申「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」平成17(2005)年12月8日<以下、「特別支援制度答申」と略す>における中央行政レベルでの議論を確認し、第3に、特別支援教育とノーマライゼーションの思想の関係性についても検討する。そして、第4に、変更された最新の法規を時系列に沿って簡単に確認する。

 以上の分析を踏まえて、第5に、報告書や答申の思想、教育法規の理念が適切に現場に行き届き、執行されているのかどうか、その具体的波及を観察するため、ケーススタディとして貝塚養護学校存続問題に触れる。さらに、障がい者の行政に対する批判意識を紹介する。最後に、教育に限定せず、広く障がい者施策を批判する立場から問題点を示唆し、議論を閉じたい。

1 障がい児教育における用語の問題

 「特殊教育」は、今日、大きな変貌を遂げようとしている。それは、ここ20年の状況でいえば、平成元(1989)年度の学習指導要領において「第5章 養護・訓練」と表題が記されていた「第2 内容」が、平成10(1998)年度学習指導要領では「第5章 自立活動」と規定された「第2 内容」へと衣装変えしたことに、端的にあらわれている(平成15年一部改正版も同一の表記。10年版と15年一部改正版とにおける改正内容は、主に総合学習に関わる変更なので、特別支援教育を主題とする小論では、以下、学習指導要領に言及する際、「10年版」に基づく)し、今日的議論でいえば、「特殊教育」から「特別支援教育」へと大きく枠組が変わる骨格そのものの変貌としてあらわれている。

 前者の学習指導要領における障がい児教育「内容」の衣装替えは、具体的な指導の「内容」の名称変更にもおよび、「身体の健康」、「心理的適応」、「環境の認知」、「運動・動作」、「意思の伝達」の5項目は、それぞれ、「健康の保持」、「心理的な安定」、「環境の把握」、「身体の動き」、「コミュニケーション」というように、単に障がいのある児童生徒の機械的、訓練的なルーティーンワークのニュアンスを捨て去り、障がいのある児童生徒個々人の自主的な学習活動を意欲させるいわば人間味のある表現となっている。すなわち、自分で「保持」し、自分で「安定」させ、自分で「コミュニケーション」するということを意図させるよう改訂されているのである。

 当然ながら、目標も変更されている。すなわち、「自立」という表現のまったくない平成元年度小中学部学習指導要領から、「個々の児童又は生徒が自立を目指し、障害に基づく種々の困難を主体的に改善・克服するために必要な知識、技能、態度及び習慣を養い、もって心身の調和的発達の基盤を培う」(平成10年度版)という「第1 目標」の規定の下、従来の受身的な表現から能動的な表現への変更は、望ましいものであり、評価に値するといえる。

 後者については、最近の答申に触れつつ次節で議論の俎上にのせることになるが、さしあたり見通しを述べておけば、この抜本改革は、障がい児教育の質的向上を目指す素晴らしい理念・姿勢と、それを実現しようとする現実的つまり予算的措置との板ばさみに文科行財政が遭遇し、その苦しい「公然の秘密」的台所事情を「隠し」ながら、報告・答申の文面にかなりの程度融通の利く、解釈の余地がある文言を披瀝し、制度構築にあたって自由度の高い改革となっていることを指摘しておこう。

 以上のように、新しい平成10年版学習指導要領には重要な意義が認められるけれども、ここに確認した指導の「内容」の名称変更にみられる小規模な規定変更を導火線にし、報告・答申を踏まえた大枠変更という障がい児教育改革路線に沿って、日本全国に993校ある特殊教育諸学校がすべて「特別支援学校」となり、よくも悪くも、「21世紀的」改革の波に洗われようとしているのが、現在の障がい児教育をめぐる状況といえる。

 こうした大枠変更の背後には、「新しい障がい」といわれるLD、ADHD、高機能自閉症の児童生徒への対応をいかにするべきか試行錯誤する教育現場および教育行政の姿勢がある。そこで、用語の問題に注目するこの節では、あらかじめこの「新しい障がい」の定義を、文部科学省「小・中学校におけるLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のためのガイドライン(試案)」(平成16年1月)を基に明示しておこう。

 この「ガイドライン」は、平成11(1999)年7月の文部省の「学習障害及びこれに類似する学習上の困難を有する児童生徒の指導方法に関する調査研究協力者会議」の報告である「学習障害児に対する指導について」、「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒の全国実態調査」(平成14年、文部科学省)、そして「最終報告」を受け、さらに、具体的局面としては「学習障害児(LD)に対する指導体制の充実事業」が全都道府県で実施され、平成15年度からADHDや高機能自閉症をも含め支援体制の構築に向けた「特別支援教育推進体制モデル事業」が全都道府県で開始されたことを背景に作成着手されたガイドラインである。

 では、LD(Learning Disabilities:学習障害)について、どのように規定されているだろうか。学習障がいとは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち、特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指す。なお、学習障がいは、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障がいがあると推定されるが、視覚障がい、聴覚障がい、知的障がい、情緒障がいなどの障がいや、環境的な要因が直接的な原因となるものではない、とされる。

 また、AD/HD(Attension Deficit / Hyperactivity Disorder:注意欠陥/多動性障がい)とは、年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、及び/又は衝動性、多動性を特徴とする行動障がいの典型である。この障がいは、社会的な活動や学業の機能に支障をきたすものである。注意欠陥/多動性障がいは、7歳以前にあらわれ、その状態が継続し、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される、とされる。

 高機能自閉症はどう定義されているのであろうか。高機能自閉症とは、3歳位までにあらわれ、他人との社会的関係の形成の困難さ、言葉の発達の遅れ、興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする行動の障がいである自閉症のうち、知的発達の遅れを伴わないものをいう。また、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される、と述べられている。

 このように、「中枢神経系に何らかの要因による機能不全がある」と推測されるに過ぎない医学的解明段階であって、この「新しい障がい」の原因は、今もなお不明といわなければならない。その根本的な解明が待たれるが、少なくともその判定には医学的知見からの判断があってはじめて「新しい障がい」と認定されるべきで、逆にいえば、この医学的判断の必要性自体が、学校で教員が恣意的に「新しい障がい」児であると判別してはならない根拠となる。

 なぜこのようなことをいうかというと、「新しい障がい」といわれるLDやADHDは、ある面、「子ども狩り」のような感じで方便的に使われ、「行動の不自然な子、悪い子」を「『新しい障がい』という『病気』」に確定させて学校現場から疎外し、葬り去るような風潮がみられるからである。名指しで「あの子LDやからなぁ」という会話が懇談会や授業参観で交わされるようになってきている。このような保護者の態度には極力注意しなければならない。教員も然りである。まるでこの「新しい障がい」を示す言葉が流行のように使われ、新たな教育差別を生みつつあるのである。このあたりのことを盲・聾・養護学校の特別支援教育を専門とされている先生方は、危機を感じると同時に深く心を痛めておられる。

 いずれの場合の障がいに関しても、障がいが先に認識されるのではなく、人間が先に認識されるPersons with disabilitiesの発想を貫く基本的姿勢にワタクシたちは立つべきである。

 さて、「特殊教育」の用語は、つい最近の改正(平成18年6月21日法律第80号、平成19年4月1日施行)まで流通していた(いる)使用法であり、法律の正統な表現では、現在(未施行ではあるが)「特別支援教育」である。法律上の文言において「特殊教育」の名称がなくなるのは朗報といえる。よくいわれるように、「特殊」が「普通」に対する対義語ではなく、「一般」あるいは「普遍」に対する対義語であることから使用法がおかしいと指摘されていたのだが、この経緯からしても朗報である。

 この呼称廃止と同時に、「特殊教育」を用語として表現・採用していた時代から、その対象児童生徒に「障害」があるということをもっぱらの理由に、この分野の教育について「障害児教育」との全称的表現が与えられてきたが、「障害児教育」も、「障がい児教育」と変更されることを強く望む。もっと要求すれば、この言葉そのものが消滅することを望むものである。代わりに、たとえば「支援児教育」や「自立支援児教育」と表現すればいい。おそらく時代の流れはそういうふうに進むであろう。

 小論でも「障害児教育」という表現を使う場合があるが、従来、メディア媒体、研究書を問わず「障害」と表記していることに違和感を覚える筆者は、資料類からの引用以外のところでは、すべて「障がい」というように、この「はじめに」における該当箇所をも含め、平仮名表記していることをお断りしておく。

 ちなみに、「特別支援制度答申」のあるところで、「現在の学校教育法における特殊教育の規定にある『欠陥』や『心身の故障』等の語については、特別支援教育の理念にふさわしくないと考えられることから、特別支援教育への転換に伴う法令上の用語等の見直しについて法制的な検討を行う必要がある」と教育用語の改善を注記しているのは、妥当であった。「故障」というように法令は冷たくむごく規定してきたが、障がいがあろうとも人間は血の通った存在であり、機械ではない。この「欠陥」という言葉使いに胸を痛めてきたワタクシとしては、「障害児教育」論議が活発化するとき、つまり答申などが出されるときは、いつも即時変更を要求してきた。少なくとも「特殊教育」の名称廃止が陽の目をみて、よろこばしいかぎりである。

 ただしかし、それをどう変えるかは難しい。たとえば、いま、「欠陥」=「個性」と捉える捉え方が主流であるから、表記を「個性」とするのも考えられるが、これはこれでしっくりいかない。文科省はこれにいかなる決着をつけたのか。この変更に関しては第3節で述べよう。それに、この点に関わって、もうひとつの問題も絡んでくる。

 というのは、障がい児教育、特別支援教育は、国民の教育権を守る立場からいってその保障が不可欠であるのはいうまでもないとしても、健常児とまったく同一の教育課程を履修することは絶対的に無理であり、障がいのある児童生徒の保護者は、是非とも有効な内容の特別支援を心待ちにしているということに関連する。すなわち、「個性」といってしまうと、健常児の「個性」も障がい児の「個性」も同じ範疇で捉えられかねないし、特別支援に対する制度保障が低下するのではないかと、とりわけこの制度を必要とする障がいのある児童生徒の保護者国民が猜疑心を持ってしまうかもしれないのである。「必要な『支援』」は、「『必要』な支援」なのであって、たとえ財政に苦しむとしても行政が本件に関して手抜きしてもらっては困るわけである。切り捨ての特別支援は厳につつしまなければならない。

 昨年の年頭、『朝日新聞』(2006年1月8日付)は、盲・聾・養護学校の名称変更そのものについてではないが、「特殊学級」から「特別支援学級」への転換に関し、次のような記事を書いていた。「文部科学省が今月召集の通常国会に提出する学校教育法改正案の骨格がわかった。存廃が論議になってきた小中学校の特殊学級は、存続を保護者らが望んでいることに配慮し、07年度をめどに『特別支援学級』と名称を変えて残す。盲・ろう・養護学校は複数の障害に対応する『特別支援学校』に改める。また法改正と併せて文科省は省令を改正し、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などの子供についても適切な指導が受けられる仕組みづくりをめざす」。実際は、「特別支援学級」ではなく、「特別支援教室」となるのであるが、やはり保護者は「学級」レベルにおいても「存続」を強く望んでいるのである。

 つづけて同紙は、法改正によって、法令から特殊教育の用語が姿を消すことを伝え、「今後は障害のある子供の自立や社会参加への取り組みを支える『特別支援教育』に名実ともに転換する」と述べるが、学習指導要領もまたこの変更に応じて改正される可能性が高い。2007年1月現在、官邸主導といっていい教育再生会議が中間報告を出す時期であることから、もし近々学習指導要領が改訂されるとして、そこで明記される障がい児の「社会参加」が掛け声倒れにならないよう、社会参加の措置責任を国、地方自治体が負うとともに、やがて社会に巣立つ障がい児のために、企業の方から就職・採用に関する規定を「努力義務規定」ではなく、「必須規定および違反罰則規定」にするような、「ウルトラ発言」がでることを願ってやまない。

 「特殊教育」の高等部に進学する生徒数が増えている昨今、障がい者の社会参加を経済的自立つまり就業と絡めて指導することが一層期待され、従来の鍼灸への道や歯科技工への就職のほか、多様な就職先を開拓、確保しなければならない。知的障がい養護学校が、簡易作業を企業から下請けまたは業務委託され、またたとえばパンを焼くなどの就業体験をし、社会へ旅立つ準備運動をしているけれども(註1)、こうした注文受け付けが不景気の中、頭打ちになっている現状からすれば、企業の倫理的な就職協力体制に依頼するだけでは苦しい。

 企業は経済不況や企業構造の合理化による人材整理を根拠に、障がい児の雇用を放棄せず、たとえば、お菓子のメーカーだとか、おもちゃのメーカーだとか、子どもの成長に深く関係する企業は、自らの小さな「市場開拓」のためにも積極的発言を求めたい。

 さらに、同紙は「新しい障がい」児が全児童生徒の約6%(約68万人)存在する一方で、彼らは「特殊学級や『通級指導教室』の指導対象にはなっていない」(註2)と指摘する。ここからは、「新しい障がい」児を通級指導教室で対応させるのがよいとみなす『朝日新聞』の思惑が読み取れるのであるが、それがいいかどうか。ここでも「必要な『支援』」は、「『必要』な支援」との意識から、相当難しい制度的枠組を想定しなければならないだろう。ノーマライゼーションの理念を活かしつつ、93年に出発した通級指導の充実した校内構想をどう樹立するかが問題となる。この特別支援教室の在り方、法的規定が、この分野の最難関事項である。交流教育、共同学習、どう呼ばれようともいいが、健常児と障がい児とがクロスする現場の難しさは、教育界に生きるものであっても、想像を絶する問題を胚胎しているのである。

 では、このように学校教育法を改正する原動力となり、特別支援教育に関する教育用語の変更をついに実現させた中央行政レベルでの議論は、いかなるものであったのか、節を変えて跡付けていこう。

2 特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議および中教審の教育思想と制度構想

@ 「最終報告」の特別支援教育思想

a 「最終報告」の課題意識の考察

 この「最終報告」は、従来の障がい児教育研究の達成を踏まえると同時にその限界をも指摘し、障がいのある児童生徒に対する教育の一層の充実を図るという理想的観点から、学校の役割や機能、新たな教育のニーズに対応するための体制など、学校教育の全体的なシステムやそれに関わる法令制度に主に焦点をあて、2つの課題解決を織り込んだ提言の、文部科学省への報告書である。

 その課題のひとつは、障がい種別の枠を超えた盲・聾・養護学校の在り方についてであり、もうひとつは、前節で定義を紹介した小・中学校等におけるLD、ADHD等への教育的対応についてである。こうした障がいのある子どもたちのための教育の新たなシステムづくりや制度の再構築を目指す「協力者会議」、ひいては文科省のチャレンジは、どのような内容を持つのか。また、こうした従来からの障がいと新しい障がいとを一括りにして制度化することは、現実的な試みといえるのだろうか。

 まず、「協力者会議」は、障がい児教育の実態を科学的に捉えようとし、量的・質的変化についての分析を議論の端緒としている。そこでは、近年、養護学校や特殊学級に在籍している児童生徒が増加する傾向にあり、通級指導を受けている者も平成5(1993)年度の制度開始以降増加してきているという。また、『朝日新聞』も報道したように、「新しい障がい」と範疇付けられるLD、ADHD、高機能自閉症の児童生徒を含め、学習や生活の面で特別な教育的支援を必要とする児童生徒数について、全国実態調査の結果が、約6%程度の割合で通常の学級に在籍している可能性を示していることを特筆する。

 さらに、「協力者会議」が報告した平成15年3月の時点で、盲・聾・養護学校に在籍する児童生徒の障がいの重度・重複化が進んでおり、ほぼ半数近くの児童生徒が重複状況にあるのだが、こうした状況を知って指をくわえたままであってはならないと、「協力者会議」は憂いている。このほか、肢体不自由児対象の養護学校等では、日常的に医療的ケアを必要とする児童生徒が増加しているし、知的障がい養護学校に多く在籍している自閉症の児童生徒に対する適切な指導法の開発が課題となっているとする。こうした養護学校をめぐる実態的変化を踏まえて、今後の適切な教育的対応を考えていくことを指摘する。

 「協力者会議」は、上のような分析から、従来の盲・聾・養護学校では、「新しい障がい」に苦しむ児童生徒への支援を含め、このままでは障がい児教育の「現実」に対応できないとし、包括的な枠組みを打ち出す。それが障がい種を包括し教育担当する特別支援教育の提起につながる。具体的には、特別支援教育を実施する「特別支援学校」の構想である。「協力者会議」では、この特別支援教育を定義し、「これまでの特殊教育の対象の障害だけでなく、その対象でなかったLD、ADHD、高機能自閉症も含めて障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し、当該児童生徒の持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するために、適切な教育を通じて必要な支援を行うもの」としている。

 特別支援教育は、障がいのある児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するためのものでなければならない。したがって、盲・聾・養護学校と小・中学校の常日頃からの情報交換、福祉・医療、都道府県および市町村教育委員会の協力体制など、各関係機関の有機的連携と協力が叫ばれることとなる。そうであれば、障がいのある児童生徒個々人についての情報が一括して理解され、個々のニーズに応じた支援を充実させるために、カルテ的なものを用意する方策として「個別の教育支援計画」のための「追跡データベース」を作成するのも妥当な方策といえる。

 すなわち、教育、福祉、医療、労働などの関係者が一体となって乳幼児期から学校卒業後まで障がいのある子どもとその保護者等に対する相談・支援を行なう体制の整備を進めると同時に、そうした個々の分野の担当者の得た情報を共有化する。こうした情報共有を基に改めて教育支援の在り方を再調整し役割分担を効率化するわけである。そのとりまとめ役として、特別支援教育コーディネーターという役職が、各学校の校務分掌に位置付けられるようになってきている。もう少し、特別支援教育コーディネーターについて解説しよう。

 結局、「協力者会議」によれば、特別支援学校であるなしに関わらず、各学校には、障がいのある児童生徒の発達に関する知識を持ち、障がいのある児童生徒に対応できるカウンセリングマインドを有する者を、「特別支援教育コーディネーター」として設置するよう提起するのである。このコーディネーターの役割は、そこにとどまらず、学校内また関係機関や保護者との連絡調整役を担う者として位置付けられ、校務分掌の一部門となる。もちろん医療など関係機関との連携協力の体制整備を図る仕事も受け持つ。とすれば「コーディネーター」は、かなりの仕事量を担当することになるが、各学校の「コーディネーター」をまとめ、場合によっては研修指導する役割が、都道府県を責任主体とする特別支援学校に担当命ぜられるわけである。

 そこで議論は、いまの体制下の盲・聾・養護学校の先生、各学校の特殊学級の運営に責任を持つ先生=「コーディネーター」が協力し合い、教育方法を高度化する総合研究所たる特別支援学校に変化させることや、障がいのある児童生徒にあって、特別の教育的支援を必要とする者に対する支援を行なう地域の特別支援教育のセンター的役割を果たす学校への転換が焦点となる。そしてさらに「広域特別支援教育連携協議会」なるものも登場することになる。

各学校   特別支援学校(市立など)   各学校
 ↓       ↓            ↓
特 別 支 援 学 校(都道府県立・センター的役割)・広域特別支援教育連携協議会
 ↑       ↑            ↑
各学校   特別支援学校(市立など)   各学校

 多様な教育的ニーズに対応するとの観点に立ち、特定の障がい種のみを受け容れる「盲・聾・養護学校」の制度から、各地方公共団体において地域の実情に応じて障がいのある児童生徒に対する教育的支援を充実することが柔軟にできるように「特別支援学校」に改めると主張するのも、ひとつの根拠は上のようなところにある。

b 「最終報告」における特別支援教室についての提言の考察

 その一方で、「特殊学級」がある。この「特殊学級」は、盲・聾・養護学校に在籍せずとも、ある場面では十分に健常児と学習をともにすることができる軽度の障がいのある子どもが対象である。軽度障がい児の教育の場として「特殊学級」は存続が当然であるが、これを「特別支援教室」に改変するよう「協力者会議」では検討されていた。

 小・中学校に在籍し、通常の学級つまり原学級あるいは親学級に在籍した上で、障がいに応じた教科指導や障がいに起因する困難の改善・克服のための指導を必要な時間のみ特別の場で教育や指導を行う形態をとるようにする。この場合、障がいのある児童生徒は、できるだけ自らが在籍する学級において他の児童生徒とともに学習し、生活上の指導を受け、障がいに配慮した特別の教科指導や障がいに起因する困難の改善・克服に向けた自立活動といった特別の指導が必要な時間を、この特別支援教室において担当の教員等から指導を受けることになる。

 ところで、従来の「特殊学級」は「学級」という枠組を軽度障がい児に提供し、できれば学年別、障がい種別に「特殊学級」を用意しようとしていたのに対し、今次は、「特別支援教室」というように、「教室」なのである。つまり「学級」であれば、複数用意することが可能な表現であるのだが、「教室」では、「学校にひとつ」と確約されたようなものである。これは、学年別、障がい種別に自立活動支援をするのではなく、学校における障がいのある児童生徒を一括して必ず対応するという方針のあらわれではなかろうか。たとえ変更があったとしても、「特別支援学級」にすべきところを、このように変更した根底には、よくいえば文科省の別学体制打破の思想がうかがえる一方、統合し簡略化する発想も滲み出ているといえよう。こうした「教室」化の方針は、「特別支援制度答申」でも継承されるのであった。

c 「最終報告」へのコメント

 21世紀の障がい児教育は、「特殊教育から特別支援教育へ」推移すべきであり、障がい児一人ひとりの「教育的ニーズ」に対応するべく配慮をしようと、「協力者会議」は考えているようである。だが、障がい種に呼応した教育的対応をしてきた盲・聾・養護学校体制を、「協力者会議」が切り崩す方向に舵をとったというように、否定的な評価を下すこともできる。盲学校には、盲学校の専門性に長けた支援世界がある。聾学校、養護諸学校にしてもそうである。この体制が、いままで「分断的であった」とみるのは、誤りであろう。それぞれの障がい種に応じた教育的指導の蓄積が、障がいのある児童生徒の苦しみを緩和し、最善の指導を可能にしてきたのである。継続的に担当する教員が、個々の児童生徒の障がい状況を手に取るように理解できたのも、細分化され、緻密化された障がい種別の学校体制があったからではなかろうか。上の「推移」は、単に行政の教育財政合理化政策が、教育行政の「一番弱い部分」に圧力をかけた措置であるといわなければならない。

 教育財政合理化を優先し、我が国の特別支援教育行政は、個々の障がい種に応じて配慮することを放棄し、「特別支援学校」に統合するよう動き出した。このままでは、特別支援教育財政が圧縮されるのはあきらかである。盲・聾・養護学校の種別に「建築」された学校は、徐々に統合化の憂き目にあう。たとえば、それぞれの種別の学校が3校あったとして、それが1校に統合されるとすれば、他の2つの校舎は破壊される。それは、従来の教育スペースが削られることを意味し、物理的に数値的に計れる教育サービスの低下となる。これで特別支援が充実するとは到底いえない。統合は、他方を削減する方便といっていいのである。

A 中央教育審議会の特別支援教育構想 −思想の制度化−

a 「特別支援制度答申」における特別支援「学校」の構想

 「特別支援制度答申」は、いままでに話し合われてきた特別支援教育論議の行政側の集大成であるといえる。「特別支援制度答申」は、日本が健常者も障がい者もへだてなく生活を送ることができる「共生社会」化しつつある現実に立ち、これを一層進める観点から、「制度」としての特別支援教育の充実を図ることをメインテーマにしている。ということは、この答申のめざす理想的社会は、障がい児教育だけでなく、障がい者施策をも視野に入れて総決算したい希望を持っていると解釈できる。また、将来的に、特別支援教育と「通常の教育」の別学体制から脱却し、それを一本化することを中教審は検討事項に入れているのではないか。そう推測させるに足る改革内容を「最終報告」から引き継いでいるからである。このことは、ノーマライゼーションの理念とどうぶつかるのか、ぶつからないのか、先の「特殊学級」存続を切に願う保護者と、どういう関係にあるのだろうか。

 ところで、この答申そのものの位置付けからいえば、「最終報告」のまとめ役が調査研究協力者会議主体であったのに対し、今回の特別支援教育政策が、法律に基づいて設置された中教審から「答申」されたところに、最大の意義があるといえる。すなわち、それは、この「特別支援制度答申」が、文科行政の基本指針となることを意味するので、注目しなければならないのである。しかしながら、前段に検討してきた「最終報告」を越える内容や提案を新たに示すものではないし、本質的な施策転回は見受けられない。「特別支援制度答申」は、「協力者会議」の具体的検討を制度的に表現し、お墨付きを与えたのみである。たとえば、中教審の「特別支援教育」の定義も、「『特別支援教育』とは、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものである」としており、「協力者会議」の「最終報告」と変わるところはない。

 その意味では、「議論の塗り直し」が行なわれたに過ぎない。その「議論の塗り直し」の中でも、少し厚塗りしたところがあるので、ここではそれらを分析対象にしよう。なお、「特別支援制度答申」において「(仮称)」として表現している部分については、すでに法規上表現が改正された(る)ことであるし、煩瑣に及ぶので、小論では省略する。

 さて、「特別支援制度答申」は、特別支援教育を進めていく上で、現在の制度を様々な教育的ニーズに適切に対応し得る必要があるとし、とくに障がいの重度・重複化への対応、LDなど新しい障がい種への対応が課題であるとする。このため、各都道府県等では、複数の障がいに対応する併設型養護学校の設置や、盲・聾・養護学校の配置見直しなどに関する検討が進められていると現状を報告し、地方分権の進展も踏まえれば、国の設計した特別支援制度をより柔軟なものとすることによって、こうした努力を促進したいと結論する。その意味では、この「特別支援制度答申」は大綱的文書とみなすべきであろう。

 このため、「最終報告」で提言されているとおり、現在の盲・聾・養護学校を、障がい種別を超えた学校制度=「特別支援学校」とすることが適当だと主張するのである。こう主張されるところの「設置見直し」や「障がい種を超えた」制度的措置が、繰り返すまでもなく設備の削減を予定するまやかしであり、地方分権の推進を貫徹するのが、この合理化の免罪符的役割となっている。この措置が、例の三位一体の骨太の改革に沿い、国の地方交付金の出し惜しみの裏面的推進であるのはいうまでもない。

 統合という名で小規模化される特別支援学校は、基本的には5種類の障がい種別(視覚障がい、聴覚障がい、知的障がい、肢体不自由、病弱)及びこれらの重複障がいに対応した教育を行なう学校制度とし、具体的にいかなる障がいに対応した教育を行なう学校とするかについては、地域における教育ニーズ等に応じて弾力的に判断されることとなる。ただ、これも「弾力的」といっても、中教審自身が報告するように、重複障がいが増えてきている現状では、校数削減といっているに等しい。現状から推しても、後に告発する貝塚養護学校廃止としてあらわれているのである。

 また、LD・ADHD・高機能自閉症等については、小・中学校等における特別な指導内容・方法が確立されていない現状にかんがみ、これらの児童生徒に対する適切な指導及び必要な支援の在り方についても、特別支援学校が、センター的機能の発揮を通じて先導的役割を果たすことが想定されると「特別支援制度答申」は提言する。

 こうした機能的立場から、特別支援学校の配置について、5点の考慮がなされる。それは、第1に、個々人の教育的ニーズに対応するため、可能な限り複数の障がいに対応できるようにするべきとの視点であり、特別支援学校が重複障がい対応に力をいれているのがわかる。だか、重複障がい対応を名目として、個別の指導がおろそかにされる可能性は否定できない。

 第2に、障がい児が、できるかぎり地域の身近な場で教育を受けられるようにするべきとの視点であり、障がい児の通学時負担を極力なくすように制度維持を表明している。一般に障がい児が通学手段とするのはバスであろう。広域に居住する障がい児を郊外に設立された特別支援学校に送り届けるわけであるが、できるかぎり短い通学時間で済むのが望ましいであろう。それは、特別支援学校の複数校設立が必要十分条件となるのはみやすい道理である。

 第3に、同一障がいの幼児児童生徒による一定規模の集団が学校教育の中で確保される必要があるとの視点である。だが、これはもともと「マイノリティー」である障がい児教育に当てはめるのには無理がある。個別の教育的ニーズに対応すると謳っているのにもかかわらず、それを一定規模に集約し指導しようというのは、予算面の都合に過ぎない。

 第4に、障がい種別の専門性が確保され、専門的指導により障がい児の能力をできるかぎり発揮できるようにする視点である。これは、従来追求されてきた視点であり、今後も継続し専門性の向上が期待される。具体的には特別支援教育免許状修得者の配置充実となろう。

 最後に、特別支援教育のセンター的機能が効果的に発揮されるようにする視点、である。これらの視点が陽の目をみるには、そのための「障がい種別を超えたグループ別」の教育課程が効果的に編成されるべきであると「特別支援制度答申」は述べる。この「グループ別」というのがワタクシたちにおいては、理解の外にある。

 上の5つの視点のうちの最後の視点である「センター的機能」は、「特別支援制度答申」では6点にまとめられている。第1に、小・中学校等の教員への支援機能、第2に特別支援教育等に関する相談・情報提供機能、第3に、障がいのある幼児児童生徒への指導・支援機能、第4に、福祉、医療、労働などの関係機関等との連絡・調整機能、第5に、小・中学校等の教員に対する研修協力機能、第6に、障がいのある幼児児童生徒への施設設備等の提供機能、である。なお、「障害者基本法」において、障がいのある児童生徒と障がいのない児童生徒との交流及び共同学習を積極的に進める旨が規定されたことを踏まえ、今後、盲・聾・養護学校に在籍する児童生徒と、地域の小・中・高等学校の児童生徒との交流及び共同学習の機会が適切に設けられることを促進することをも訴えている。

 こうした「センター的機能」が適切に「機能」するために、特別支援学校間での適切な連携が行われるとともに、その管理運営を担う都道府県教育委員会と、小・中学校の管理運営を担う市町村教育委員会とが十分に手を組むだけでなく、福祉、医療、労働など関係行政機関等の連携の下で地域支援のためのネットワークが形成されることが有効であると「特別支援制度答申」は述べ、各都道府県レベルで構成された「障害保健福祉圏域」や教育事務所単位での支援地域の設定を生かすべきと提言する。その際、「新障害者プラン」(障害者基本計画の重点施策実施5か年計画)において策定することとされている「地域において一貫して効果的な相談支援を行う体制を整備するためのガイドライン」の内容にも留意する必要があると「周辺事態」との包括的なプログラムを見通すシステム作りを目指すのであった。

 なお、「新障害者プラン」の中の表現である「個別の支援計画」と、「個別の教育支援計画」の関係については、「個別の支援計画」を関係機関等が連携協力して策定するときに、学校や教育委員会などの教育機関等が中心になる場合に、「個別の教育支援計画」と呼称しているもので、概念としては同じである。

b 「特別支援制度答申」における特別支援「教室」についての問題点

 では、「特殊学級」から「特別支援教室」への移行はどのようなものであるのか。障がい種別あるいは都道府県別の平均在籍者数には幅があるのでその実態は様々だが、全国の小・中学校の「特殊学級」の平均在籍者数は約2.8人(平成16年5月1日現在)との報告がある。

 従来の「特殊学級」の児童生徒には、教育課程のすべての時間をそこで過ごす必要のある児童生徒もいるし、かなりの時間を通常の学級との交流教育という形で障がいのない児童生徒とともに過ごす通級指導のケースもある。こうした従来制度に応じる教員はどうかといえば、残念ながら「特殊学級」を担当してきた教員の指導能力もまちまちなのが現状であり、通常の学級を担任する教員にまで特別支援に関わる相談支援が可能な専門性を有する先生方や、「巡回による指導」を精力的にこなす先生方もいる一方で、十分な専門性を有しない先生が配置される場合もある。それゆえ、通級指導、巡回指導の見直し、配置教員の専門性向上などが改革の端緒となるわけであり、小論では突っ込んだ議論は割愛するけれども、特別支援教育免許状の修得が、いうなれば全教員に要求されるわけである。

 具体的な「特別支援教室」のイメージについては、新しい障がいを含め、障がいのある児童生徒が、原則として通常の学級に在籍し、教員の適切、柔軟な配慮と配置、ティーム・ティーチング、個別指導や学習内容の習熟に応じた指導などの工夫により、通常の学級において教育を受けつつ、必要な時間に特別の指導を受ける教室として、ほとんどの時間を特別支援教室で特別の指導を受ける形態、比較的多くの時間を通常の学級で指導を受けつつ、障がいの状態に応じ、相当程度の時間を特別支援教室で特別の指導を受ける形態、一部の時間のみ特別支援教室で特別の指導を受ける形態、の3形態が想定される。

 こうした3形態に応じ、「特別支援教室」の構想が目指すところは、弾力的なシステムを構築することであると「特別支援制度答申」は述べる。もう、いうまでもなく、この「弾力的」が曲者なのであり、こうしたシステム構築にあたっては、現行の特殊学級を直ちに廃止するのではなく、障がいの種類によっては固定式の学級の方が指導上の効果が高いとの現場を知るものからの希望が保護者にあること、本来ならば「特殊学級」ではなく盲・聾・養護学校に進学するべきであるが、諸事情によってそれが叶わず、重度の障がいのある児童生徒が在籍している場合もあること、さらには特殊学級に在籍する児童生徒の保護者の中には、固定式の学級が持っている機能の維持を願望する声があることなどに配慮し、そうした意見集約の上で、「教室」運用が望まれるといわなければならない。健常児の多様な教育要求に対し、「少数派」である障がいのある児童生徒とその保護者のこうした願いは、以下に述べるノーマライゼーションの思想に立脚して、手厚い保障を忘れず、施策に反映すべきであるといえよう。

3 特別支援教育行政とノーマライゼーション

 特別支援教育行政とノーマライゼーションの関係性を考えることは、重要なことである。平成19年4月、本格的に始動する特別支援行政が、ノーマライゼーションの正しい認識にのっとって実施されるのかどうかは、実際にこのサービスを享受するワタクシたちからすれば、重大なポイントとなるからである。だから、その大前提として、ノーマライゼーションの思想が正しい思想として行政側に理解されていることを希望してやまない。

 それゆえ、ノーマライゼーションの理念そのものを、ここで確認しておく価値はあろう。小論では、ノーマライゼーションの世界的な浸透を喜び、賛同すると同時に、社会的弱者に対し手厚い保障があってはじめてノーマライゼーションは進められるべき指導理念であり、非倫理的な政策遂行の隠れ蓑たることを許さないというところにスタンドしていることを先に表明しておこう。

 まず、ノーマライゼーションに関し、現状、どのような共通理解があるのか、この理念の発生からみていく。この術語が生まれたのは、1950年代のデンマークにおいてである。障がい者施設において、知的障がい者の人権が侵害される状況が現場から告発され、その是正運動が展開されたときに、この指導理念は出発したといわれている。そして、教育上において、この術語が使用されるのは、もっぱら、障がい者と健常者との交流をめざして教育活動(交流教育あるいは共同学習と表現されるもの)を実践する場合の指導理念として活用されるときであろう。

 ただ、一般的には、社会的弱者である障がい者のほか、高齢者、女性など社会的に苦しい立場におかれる可能性の高い人びとが、他の比較的弱者扱いされない人びと(就労可能年齢であり、心身ともに健康な状態のものと仮定される)と同じように活動し、生活し、暮らしていくことがあるべき社会の姿勢といえる。「特別支援制度答申」では定義付けされていないけれども、そこで用語使用されている「共生社会」への移行は、こうした社会の成立を意味し、それこそノーマライゼーションが根付いた社会といえる。社会的弱者一般を「アブノーマル」というわけでは決してないが、それぞれに「弱点」とみなされる要素がある場合でも、そうした「弱点」を「弱点」として意識しないで豊かにゆったりと生きていけること、生活していける社会の実現を志向する。

 そうした意味では、障がい者にせよ、就労可能年齢であり心身ともに健康な状態のものと仮定される健常者にせよ、同じ条件で生活を送ることができる人間理性に基づいた社会に改善していこうという営為そのものを、ノーマライゼーションといっていい。多様な障がいがありながらも、普通の人びとと同じ生活ができるような環境づくりこそが、ノーマライゼーションのめざす具体的社会への第一歩である。

 では、特別支援教育とノーマライゼーションの関連はどうなっているのだろうか。前節までの議論において、ノーマライゼーションの思想はどのように認識されているのだろうか。それはサラッと流されるように、数箇所触れられているだけであり、報告書や答申の文面には、ほとんど登場しない。「特別支援制度答申」でいえば、第1章と第2章に2箇所あるだけである。しかもこの理念を深く考察しようとする姿勢はうかがえず、一般論的に登場するに過ぎない。

 ノーマライゼーションが共生社会の理念であるとして、現実にノーマライゼーションの実現=統合であるとするなら、統合は何と何を統合するのかということに注目しなければならないだろう。たとえば、行論で検討してきたような障がい種別の学校の特別支援学校への統合が、ノーマライゼーションの思想に合致するものなのかどうか、も知る必要があろう。一見、特別支援学校にすべての障がい種を統合するといえば、ノーマライゼーションの思想が制度的に進み、理想的なように映るが、果たして、たしかにそうなのか。さらにこの「統合」は、「普通校」と「特別支援学校」とを統合していく過渡段階にあるのだろうか。こうした検討に付随して、「普通校」と「特別支援学校」との別学体制を一層推し進めていると評価される事態をどうみるか、も議論の余地があろう。そこで理念型を提出し整理すれば、以下のような「統合」のスタイルがあることになるので、こうした各「統合」に触れながら議論を展開していこう。

@普通教育と特別支援教育全体の統合(=特別支援教育そのものの廃止)
A障がい種別の盲・聾・養護諸学校を一括りにし、特別支援学校にする統合(=個別特別支援の廃止)
B普通教育と特別支援教室の統合(=特別支援教室の廃止)
C特別支援学校と特別支援教室の統合(=特別支援教室の廃止=別学体制の確立)

 @のように、普通教育と特別支援教育全体を統合することは、絶対的に不可能である。いかに共生社会が理想だとしても、教育支援ニーズが健常者とちがうかぎり、特別の支援は必要であり、将来的にも垣根を完璧になくす「統合」はあってはならない。この主張を、別学体制を助長する意見だと決めつけるならば、その意見は誤っている。ただし、薪を割ったように別学体制を維持するのは、これまた不本意な教育展開である。だからこそ、交流学習が叫ばれているのである。両教育分野から、自然と歩み寄って、ともに学びあう形がみえてくるのが理想的な在り方であって、遠足にいっしょにういったり、文化祭をともに楽しんだり、主に特別活動分野における交流や共同学習の多角化が期待されている。

 健常児と障がいのある児童生徒との交流は、社会に巣立ってから障がいのある児童生徒が健常者とどういうようにつきあっていくかを探る場であり、裏からいえば、健常者がどのようなスタンスで障がいのある人びとと交際していくのかを学ぶ場であり、両者共通に、思いやりと理性を信じ、いかなる豊かな人生を送るかを真摯に選択する場でもある。そうした意味で、ここでいうところの「統合」を、特別支援教育現場をまったくなくし、「普通の学校」といわば合併する形で、建物的に「統合」するというのであれば、通学圏の問題を解消するかぎり、問題ない。従来点在するすべての障害ある児童生徒のための学校の総敷地面積と、延べ換算で同じ面積を保障して新しい特別支援学校を設立し、健常児も障がいのある児童生徒もいわば「同居」する物理的問題の解消という意味で「統合」という言葉を使うならば、なんら反対はなく、むしろ、賛成である。そのためには、特別支援学校がセンター的役割を果たすべき、都道府県が責任を持つと「特別支援制度答申」では述べられていたが、一県一校のパイロット校的な配置にとどまらず、市町村規模でこれを複数設置すればよいのである。

 だが、それは絵に描いた餅に過ぎない。市町村規模でも特別支援学校を新規設立することは、障がいのある児童生徒数からして行政が難色を示しているのに、各学校に、充実した特別支援の教育施設を併存させること、たとえていえば、現在の「特殊学級」をすべて特別支援学校と同程度の施設に発展させ、あらゆる学校に配置することは、土台無理であるということである。

 Aの統合は、「特別支援制度答申」において最も主張したいポイントとなっていたが、この統合に関しては、まったく無意味ではないかと考える。第1に、いままでの特別支援における専門的な研究および実践の積み重ねが損なわれる可能性が高いからである。どのような計画によって合理化を進め、盲・聾・養護学校を「統合」つまり一体化するのかについては、すでに触れた。そこでは、一本化するメリットはみあたらなかった。第2に、一本化することは、障がいのある児童生徒の通学圏の広範化を惹起し、「特別支援制度答申」の理念と真っ向から反するし、同一敷地内に障がい種に応じた施設を「寄せ集める」ことには意味がない。これならば、従来の状態で十分である。なにゆえに、この一本化が特別支援教育を一層よいものにするのか、理解できない。

 BとCは、「特別支援教室」が各学校と特別支援学校のどちらに吸収されるかによって統合の仕方が違うということを意味する区分けである。この「特別支援教室」をどのように「落着」させるかが、「統合」にあたって一番判断の分かれるところであろう。できるかぎり健常児との生活をともにする立場からは、各学校の「特別支援教室」を複数用意するなど充実させる方向が望ましい。ノーマライゼーションは、なんでもかんでも枠をなくすことを意味しないのだから、各学校と「特別支援教室」の「統合」は、「特別支援教室」の廃止ではなく、現状のように、「区別のある統合」のまま配置するべきであろう。「区別」は決して「差別」ではない。上で「社会的弱者に対し手厚い保障があってはじめてノーマライゼーションは進められるべき指導理念」といった所以である。繰り返しになるが、校内で学習活動のほか、特別活動など、交流が保てる状態こそが、ノーマライゼーションの理想に合致するといえる。

 その一方で、「新しい障がい」児を「特別支援教室」において指導するケースでは、対応できないケースに逢着することも考えられる。なぜなら、「新しい障がい」児だからこそ、専門的な「治療」および「支援方法」が、今後、発見あるいは開発され、実践されるだろうからである。このような場合を想定して、どのような措置をあらかじめとるべきであろうか。中枢神経系に何らかの機能障がいがあるゆえの新しい障がいであっても、たとえば高機能自閉症のように、知的能力において健常児となんら変わりはない場合もあるので、通級の比率を高めて対応するのが一般であると思われる。しかし、ここでも、障がい種で一括りにしてしまうと、「新しい障がい児」と、たとえば「視覚障がい者」や「病弱者」が同一教室で学ぶことになり、これでは個別の教育的ニーズに応じた指導形態であるとは判断しにくいのである。とすれば、特別支援教室の障がい種別の教室化は避けられないのではないか。

 逆のケースであるところの、「特別支援教室」を「特別支援学校」に組み込むことは、議論の外といえる。これは交流をめざす態度ではないだろう。現状、このような適切でない受け容れ状態にある児童生徒もいるが、いちはやく是正措置をとるべきであるといえよう。

4 特別支援教育に関する教育法規の確認

 具体的に特別支援教育に関する法規の条文の変化を追っていこう。改正前は、以下のようであった。

学校教育法 第6章 特殊教育
第71条 盲学校、聾学校又は養護学校は、それぞれ盲者(強度の弱視者を含む。以下同じ。)、聾者(強度の難聴者を含む。以下同じ。)又は知的障害者、肢体不自由者若しくは病弱者(身体虚弱者を含む。以下同じ。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために、必要な知識技能を授けることを目的とする。

 この文言が、平成18年6月21日法律第80号による改正、すなわち、「学校教育法等の一部を改正する法律 第6章の章名を次のように改める」を受ける。それは、

学校教育法 第6章 特別支援教育
第71条第1項中「盲学校、聾学校又は養護学校は、それぞれ盲者(強度の弱視者を含む。以下同じ。)、聾者(強度の難聴者を含む。以下同じ。)又は」を「特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、」に改める。
第71条第1項中「肢体不自由者若しくは」を「肢体不自由者又は」に改める。
第71条第1項中「施し、あわせてその欠陥を補うために、」を「施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために」に改める。

という読み替え規定であるから、結局条文は、

学校教育法 第6章 特別支援教育
第71条 特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。

となる。第1節で少しだけ指摘しておいたが、「欠陥」=「個性」と捉える捉え方が主流であったから、表記を「個性」とするのも考えられるところであった。文科省は上のように「自立」を前面に押し出した表現を採用し、無難な落とし処を発見したといえよう。

 これに応じ、以下のように施行規則も変わる。それは、第73条に関する規定の変更であるが、それは、もともと、平成5(1993)年に文部大臣森山真弓時代に追加規定されていたものであった。すなわち、平成5年までは、73条は20までであったのに対し、森山は73条の21と22を追加する施行規則改正を省令として通達したのであった。それが以下の規定である。

第73条の21 小学校若しくは中学校又は中等教育学校の前期課程において、次の各号の一に該当する児童又は生徒(特殊学級の児童及び生徒を除く。)のうち当該心身の故障に応じた特別の指導を行う必要があるものを教育する場合には、文部科学大臣が別に定めるところにより、第24条第1項、第24条の二及び第25条の規定並びに第53条から第54条の二までの規定にかかわらず、特別の教育課程によることができる。
一 言語障害者
二 情緒障害者
三 弱視者
四 難聴者
五 その他心身に故障のある者で、本項の規定により特別の教育課程による教育を行うことが適当なもの

この規定が、

第73条の21 小学校若しくは中学校又は中等教育学校の前期課程において、次の各号の一に該当する児童又は生徒(特殊学級の児童及び生徒を除く。)のうち当該心身の故障に応じた特別の指導を行う必要があるものを教育する場合には、文部科学大臣が別に定めるところにより、第24条第1項、第24条の二及び第25条の規定並びに第53条から第54条の二までの規定にかかわらず、特別の教育課程によることができる。
一 言語障害者
二 自閉症者
三 情緒障害者
四 弱視者
五 難聴者
六 学習障害者
七 注意欠陥多動性障害者
八 その他心身に故障のある者で、本項の規定により特別の教育課程による教育を行うことが適当なもの

と、「二」、「六」、「七」が追加されているのがすぐわかるだろう。

 なお、こうした変更から、「盲・聾・養護学校」と呼称するのではなく、「視覚障がい、聴覚障がい、養護特別支援学校」、あるいは最後の「養護特別支援学校」は「知的障がい・肢体不自由・病弱特別支援学校」と呼ばなければならない。

5 障がい児教育現場および障がい者福祉施設からの告発

@ 貝塚養護学校の存続をめぐる闘争

 貝塚養護学校は、戦後すぐの昭和23(1948)年7月、大阪市立少年保養所付設貝塚学園として創設され、昭和32(1957)年4月、養護学校として開校された伝統ある教育施設であり、病弱・虚弱児を対象に、同校での寄宿舎生活を伴う教育と大阪市内の病院に入院する児童生徒への訪問教育を実施する養護学校である。現在、在籍数は、本校(寄宿舎設置)小学部4名、中学部17名 の計21名である。平成5(1993)年の通級指導の合法後は、大阪市内の病院への訪問教育を開始していた。この学校が、いま、廃校の淵に立たされている。寝耳に水の撤廃が報知されたのは、2006年11月7日のことである。

 大阪市教育委員会はにべもない。「大阪市教育委員会プレスリリース」は、「大阪市立貝塚養護学校の学校指定の停止について」と題して、次のように語る。否定的な意味合いで、重要な歴史的碑文になる可能性があるので、長文をいとわず引用しておきたい。

 大阪市教育委員会は、大阪市立貝塚養護学校の就学に係る学校指定について、平成19年4月1日から停止します。これに伴い、以後は同校への新たな児童・生徒の受け入れは行いませんが、同校が現在行っている大阪市内の病院に入院する児童・生徒を対象にした訪問教育については引き続き行います。
 病弱児を対象とする貝塚養護学校(小学部・中学部)は、昭和23年に、転地療養を必要とする結核療養児のための大阪市立少年保養所の付設施設として開設された貝塚学園を前身とし、昭和32年に開校しました。
 平成4年、同保養所は休止され、以後、大阪市内の病院に入院する児童・生徒への訪問教育や、隣接する国立療養所千石荘病院と連携し、喘息、腎疾患等の疾病や、肥満等生活規制を必要とする児童・生徒を対象とした病弱教育を進めてきました。
 しかし、平成15年には、隣接する千石荘病院も廃止され、また、在籍数も年々減少し、学校としての存続が困難になったため、新たな児童・生徒の受け入れを停止するものです。
 なお、大阪市内の病院への訪問教育は、平成19年4月1日以降も引き続き貝塚養護学校から行い、閉校後は、大阪市内にある養護学校を病弱教育の拠点校として位置付け、医療機関との連携のもと、貝塚養護学校の機能を移管し、この拠点校から病院への訪問教育を継続して行います。
 また、これまで、貝塚養護学校で受け入れていたような、入院を必要としない病弱の児童・生徒については、家庭・地域における生活を基盤とし、小・中学校の通常の学級や病弱養護学級において、指導・支援を行い、教育・医療・福祉の密接な連携のもと、本市病弱教育の一層の充実を図ってまいります。

 ここにみられるように、貝塚養護学校は2007年4月に閉鎖されるが、この学校の歴史的使命は終わったといえるだろうか。在籍児童生徒数の減少が閉鎖の主たる理由であるが、「障がい児が、できるかぎり地域の身近な場で教育を受けられるようにするべきとの視点」というように、地域に密着した特別支援の在り方を、「特別支援制度答申」を通して確認したワタクシたちとしては、募集停止に反対せざるをえない。大阪市議会・文教経済委員会において閉校に対する反対意見があったのも、うなずける話である。その批判要点は、第1に、貝塚養護学校と病院との連携は、学校近隣の他の病院とでも可能であるということ、第2に、学校在籍者が減少するのは、該当校の存在が地域に知られるような広報活動を行政が怠ったところにあるということ、にあった。

 こうした突然の募集停止に対し、保護者たちは当然ながら存続を市教育行政に要求しつづけている。保護者やそこで学ぶ生徒たちは、「守る会」を結成した。『毎日新聞』(2006年12月13日付)によれば、「いじめなど学校でのストレスで不登校や心身症になった子どもを(これまでに−引用者の註)600人以上受け入れており、『必要とする子どもは多い』と訴えている」ようである。さらに同紙は、「全国に92ある病弱養護学校のうち寄宿舎があるのは12校で、関西では同校のみ。現在在籍する22人が卒業したり、地元の小中学校へ戻れば廃校となる。市教委は、03年まで隣にあった療養所が閉鎖され、連携が難しくなったことなどから、『今後は地域で学ぶことを重視し、各地の養護学級で対応する』と説明する」と伝える。療養所の閉鎖についても一悶着あったにちがいない。大阪市の厳しい財政事情が、寄宿舎を持つこの学校をも切り捨てる所業に出たといえる。関西でひとつしかないのであれば、より一層の充実を企てるのが、普通の神経であるのにもかかわらず、逆に自身の経営努力を棚に上げ、学校そのものを閉鎖するとは情けない。しかも、「今後は地域で学ぶことを重視」するというのであれば、地域のセンター的役割をこの貝塚養護学校に与え、少なくとも貝塚特別支援学校に再生するのが、大阪市特別支援行政の責任であるといわなければならない。在籍者のナマの声を聞こう。

 「心身症で今年3月まで4年間学んだ同府岸和田市の高1女子(15)は『先生は親身になってくれて一緒に寝てくれたこともある。今は人と話すのが楽しい。学校がなければ今の私はない』。母親(44)は『精神的に不安定で真夜中に自宅から学校へ戻った時も、先生は待っていて『おかえりー』と抱きしめてくれた。命を守る学校だと思った』と涙ながらに訴える」(『同上』)。

 「心身症児を多く診察する堺市の小児科医、竹中義人医師(49)は『心身症の子を一律に地元へ戻そうとすれば再び症状が悪くなったり、不登校の恐れもある』と危惧(きぐ)する』」(『同上』)。

 こうした声こそ、学校経営に反映するべきものである。この学校を必要とする児童生徒から居場所を強引に奪い、彷徨う砂漠の民のようにさせてはならない。

 −−「命を守る学校」、なんと栄誉ある表現であることか!

 貝塚養護学校の教員への最大の賛辞である。先生方のこれまでの努力と、在籍者、保護者の声を少数派であるからとして、むなしくするようなことが許されていいのだろうか。そして、こうした合理化による閉鎖が在籍者の存続要求を無視し執行されるところに、市教育行政と政府レベルの教育行政との乖離が確認され、市のこうした弱者切捨て施策を容認するところに、「特別支援制度答申」の大綱的意図が隠されているといえよう。

A 障がいのある人びとの批判意識

 障がい者施策をめぐる議論は、世界的に進行している。それは人権課題上の「社会的弱者」として解決課題であることを前提し、平成5(1993)年には、国際連合の総会で「障害者の機会均等化に関する標準規則」が起草されたことが示している。21世紀に入っては、「国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)」の議決である「アジア太平洋障害者の十年」の10年延長が決定されたし、日本を舞台に平成14(2002)年には、「びわこミレニアムフレームワーク」が採択されている。

 こうした世界レベルの議論の進行と並行して、障がい者施策をめぐる日本の状況も、表面的には歩一歩前進しているようにみえる。たとえば法規的にいえば、平成16(2004)年の障害者基本法の改正、「障害者基本計画」の閣議決定とその施行、発達障害者支援法の制定とその施行というように。だが、この進行には、「改悪」とみなされる立法化も含まれているのである。中でも、「障害者自立支援法」の施行は、「改悪」の最たるものであろう。2005年に抗議のデモ「10・18御堂筋・大パレード」が行なわれたのはワタクシたちの記憶に新しい。『毎日新聞』(2005年10月19日付)は、この「支援法」を「1割負担支援法」といいかえ厳しく指摘し、「今の法案では自立でけへん!」と嘆く近畿圏の障がい者のナマの声をワタクシたちに届けた。

 この御堂筋パレードは、「障害者自立支援法を考える大阪のつどい・実行委」が主催したデモである。同法案は、「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議(障大連)」の議長楠敏雄氏が「今日の行動をきっかけに、新たな自立の戦いにしていきたい」と宣言しなければならないほどの、障がい者にとって死活問題となる経済生活に関しての改悪法案であった。

 改悪と評価される理由は、滋賀自立生活センター代表垣見節子氏の「財政難としても、他に無駄があるのに、一番弱いところから徴収するのはおかしい。障害者の実態は、ちょっとした聴き取りや数字だけでは分からない」(『同上』)との発言に集約される。こうした改悪に歯止めをかけようと2004年4月、すでに声明文にまとめ、障がい者の危機感を率直にあらわしたのが、ルーテル作業センタームゲンの統合失調症当事者佐野卓志氏である。以下に示そう。

 今回の法案は国が福祉の責任を放棄して、税金の再分配から、自己負担の保険で福祉をすまそうとするものです。福祉は生活保護だけにしたいようです。御存じのように障害者はみんな貧乏です(註3)。普通の人が働いて貯金をしてる間に、仕事があまりできず、貯金がないのです。ここが老人と全く違います。だから、介護保険との統合は前提で無理なのです。それに障害者の場合は老人と違って、親(介護者)の方が先に亡くなりますから、介護保険では、親亡き後の心配がつきまといます。この法案は本人の自己負担を増やして、金の無い、特に重度の(状態の)人から搾り取ろうとしています。本人が払えないなら家族が払えと言っています。これの何処が「自立支援」なのでしょう?障害をもったことは本人の責任ではありません。普通の人のスタートラインまで引き上げることが果たしてサービスでしょうか?何故自己負担が発生するのでしょうか?

 とくに32条(註4)公費負担の廃止削減は問題です。よっぽど本人も家族も収入の無い人以外のうつ病の人は公費負担からはずれます。うつ病は大変自殺の多い病気です。公費負担からはずされると、ますます精神科からうつ病者の足が遠のき、自殺が増えると思います。今回はずされた神経症でも自殺念慮のある人は多いです。厚生労働省は自殺が増えてだれが責任をとるのでしょう?また所得証明を確認する手続きの煩雑さを1年ごとに障害者に強いることは、ますます公費負担の敷居が高くなるでしょう。精神障害者全般にわたる唯一の福祉の役割を担ってきた32条の根本的破壊です。

 住む場所(グループホームなど)の障害の重さ別の分類も問題です。これはひと昔前に精神病棟で機能別分類を実験して失敗ましたね。病者は特に居場所が大切です。今症状の落ち着いてる環境から切り離して分類して、遠くの新しい環境に住むよう強制するのは症状の悪化を招くだけです。定員を増やすことも地域から隔離されたミニ施設になり、ホームヘルパーもガイドヘルパーも使えません。そして判定による引っ越しの強制は憲法の生活権の侵害です。

 作業所も国の補助金が切られます。自治体が資金不足を理由に右にならえをしたら、どうするつもりでしょうか?少なすぎる社会資源を増やして、72000人の社会的入院の解消する時なのに、これ以上、貴重な社会資源である作業所を圧迫してどうするつもりなのでしょうか?厚生労働省はアメリカのように入院患者のホームレス化をおし進めるつもりだとしか思えません。

(中略)

 この法案には反対です。成立するようなら、年金改革で障害年金を上げることを要求します。そうでなければ、障害者は生活していけません。この国も金のない障害者の懐を当てにするようになったら本当に情けないことです。

(以下、略)

 数字は得てして効率化の冷徹な判断の材料とされるが、こと、障がい者施策については、実態は数値化でないケースが多いのである。まして、障がい者施策は、経済的合理性を追求する領域ではなく、あたたかいまなざしを持って運営するべき福祉分野なのである。この分野こそ「聖域」化するべきではなかろうか。そうでなければ日本が福祉国家を名乗ることなどおこがましいといえる。結局、「障害者自立支援法」案が2005年10月、国会を通過し、平成17年11月7日、法律第123号として成立した。法的措置の対象たる障がい者の方から、これほどまでに指弾される法律の採決に、国会は猛省しなければならないといえよう。

おわりに

 最後に、2、3点、特別支援教育と障がい者施策に関わり論点整理して示しておきたい。

 障がい者の就職支援、経済的自立支援に関しては、知的障がい者の雇用を条件付ける福祉保障的社会体制に頼り切るのではなく、企業就労が障がいのある人びとのゴールとは一概にはいえないかもしれないが、「特殊」教育諸学校は、独自な就職支援を推進する態度が肝要である。歯科技工士への道を拓り開き、全国から入学応募が殺到した堺聾学校の歴史的業績はその意味で特筆されるべきであり、そうした先生方のなみなみならぬ生徒への熱い思いが、さらに継承、増幅されることを願っている。

 こうした就労問題が、「特別支援教育」と「障がい者施策」とが現実的に交錯する最初の場所で発生するわけであり、ひとつの論点である。大阪では、昨年春出発した府立たまがわ高等支援学校が、生徒の将来的な就職をにらんで教育課程を編成しているし、「職業に関する専門学科」として「ものづくり科」、「福祉・園芸科」、「流通サービス科」が設置されている。それゆえか、スクールバスや給食がないながら、同校は、かなり高倍率の入学事情となっており、特別支援のエース校的な評判が立っているのである。この事態は、それだけこうした学校そのものの設立要望が高いことを意味しているのであって、第2、第3の「たまがわ」が求められているといえる。だが、この事態は、特別支援教育にも、エリート選抜が実施されている現実を物語るものともいえよう。

 小論で検討してきたように、実際に先んじて、交流や特別支援など教育理念が高唱されるのは、それはそれで結構なことである。理念が現実を批判するからである。だがもっとも大切なことは、障がいのある児童生徒、障がいのある人びとに対する社会、教員または教育界の意識革命ではなかろうか。これがふたつめの問題点である。

 いくら高級な言葉が唱えられようとも、指導する教員の意識が低ければ、なんともならない。教育界からですら、勘違いの発言がややもすると発せられることが、それだけ「特殊」教育への偏見が根深いことを示している。特別支援教育に携わる教員だけではなく、各学校のすべての先生方、ひいては教育行政担当者、ワタクシたちすべてが、特別支援レボリューションの担い手とならなければならない。特別支援教育に対する偏見は、他のあらゆる心理的差別つまり人権課題と根を一にしていることを指摘しておきたい。

 次の論点は、「連携」の問題である。国や地方が、ノーマライゼーションを推進するため、障がい者プランの策定や医療、福祉、労働の各分野で行政指導を展開しているのは周知のところであろう。また、グループホームの設置もなされているが、これにはまだ解決すべき課題が多い。あの、話題となった、宮城県の元知事浅野史郎氏(現・慶応大学教授)が推進し、現知事村井嘉浩氏が継承するグループホームの在り方に、賛同と批判の両方が寄せられていることが、その困難さをはっきり示している。アメニティーフォーラムのもうすぐ10回にならんとする議論を無駄にすべきではない。

 特別支援学校と障がい者施策とは、将来的に接続するゆえ、「個別の指導計画」をカルテとして、障がい者に対して一貫したサポートが望まれる。ワタクシたちが批判的に検討してきた「特別支援制度答申」の理念に、汲むべきところがまったくないわけではない。このカルテもそのひとつである。現に社会で働き生活している障がい者の現実から推して、有効な特別支援教育を樹立すると同時に、障がい者が社会人として生きていく「苦難」をワタクシたち市井の人間が理解し、あたたかい手を差し伸べ、彼らとともに特別支援教育行政や福祉行政を撃つことが、これらの諸問題を解決していくことにつながっている。

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註1

 『毎日新聞』の記者、津島史人が2006年12月21日に、「障害者に安心の未来を」と題して、兵庫県の実態を伝えてくれている。「障害者の小規模作業所が『障害者自立支援法』で危機を迎えている。寅さん映画の最終作に登場した阪神大震災で被災したパン屋のモデル、神戸市長田区の共働作業所『くららべーかりー』を訪れて実感した。/神戸市内に小規模作業所は約160カ所。この法律の影響で今後、運営を支えた補助金は実質的には減り、やりくりが厳しい作業所の閉鎖が相次ぐ可能性が高い。/私が訪ねた時、障害者は互いに笑い合い、励まし合う時間を過ごしていた。『ここは皆が1日の中で一番明るく過ごせる場所なんです。無くなったら行くところはなくなるのです』と語る関係者の言葉が胸に残った。/独自の支援策を決めた自治体もある。神戸市も障害者とその家族を将来にわたり、安心させてほしいと思う」。

註2 

 『毎日新聞』2007年1月21日付は、次のように滋賀県における最近の数字を挙げている。「◇設備充実、教員育成が課題−−来年度、通級4教室を新設へ / 注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)、広汎(こうはん)性発達障害(PDD)など脳の何らかの機能障害が原因でコミュニケーションや学習に困難がある「発達障害」を抱え、教育現場での特別な支援が必要な児童・生徒が県内で約4400人にのぼることが、県教委の調査で明らかになった。【高橋隆輔】 / 調査は昨年9月1日現在の県内公立小・中学校在籍生を対象に行った。全児童・生徒約13万人に対し、支援が必要な児童・生徒は3・5%にあたる4430人。内訳はLDが2301人(1・8%)、ADHDが1628人(1・3%)、自閉症など広汎性発達障害(PDD)が1972人(1・6%)。 / このうち約3700人は通常学級で少人数教育を行ったり、複数教員で指導に当たるなどの配慮で対応している。また、県内には現在25ある通級教室でコミュニケーション能力を高めるトレーニングなどを定期的に受けている児童・生徒は410人だった。 / 通級教室での支援については、各市町教委からの要望と比べ、設備や人材などが不足し、十分な支援ができていないのが現状で、県教委は07年度予算で新たに4教室の設置を計画している。また、「通常学級で指導に当たる教員が、特徴のある児童生徒について理解し、適切に工夫された授業や指導を行うことがもっとも重要」として、県総合教育センター(野洲市)で希望者に特別講座を年10回程度実施。06年度はこれまで11回実施し、計約1400人の教員が受講している」。

註3

 『毎日新聞』2007年1月29日付【玉木達也】は、「知的障害:仕事あっても半数が月収1万円以下 厚労省調査」と題し、次のように伝える。「在宅の知的障害児・者は、推計で41万9000人に上り、仕事をしている人は4割に満たないことが厚生労働省の05年調査で分かった。収入は月1万円以下の人が半数近くを占めた。/ 『知的障害』の定義は日本の法律にはなく、同省は『知能指数(IQ)70以下で、何らかの援助が必要な状態』という基準で、全国から5926地区を無作為抽出し、該当する人の数を調査し推計した。判明した計2584人に調査票を配布し、05年11月現在の状況を調べた。有効回答率は80.3%。/ 在宅の知的障害者数は前回調査(00年)に比べ、27.3%(8万9800人)も増えた。厚労省は『在宅サービスが充実し、家族や本人の権利意識が高まったため、表面に出にくかった知的障害者が顕在化したのではないか』とみている。/ 仕事をしている人は37.5%で、業務内容別では『福祉作業所』(56.5%)が最も多く、『製造・加工業』(15.7%)が続く。月給は5万円までが67.3%。1万円以下が48.1%で、工賃の安さが改めて浮き彫りになった。/ 一方、障害基礎年金などの年金、手当を受給していない人は14.1%で、不受給の理由として『制度を知らない』が15.4%に上った。福祉サービスが受けられる『療育手帳』も5.8%が不所持で、その理由は『制度を知らない』(30.6%)が目立った。厚労省は制度を周知徹底するよう都道府県などに事務連絡を行った」。

註4 

(サービス利用計画作成費の支給)
第 三十二条 市町村は、支給決定障害者等であって、厚生労働省令で定める数以上の種類の障害福祉サービス(施設入所支援を除く。)を利用するものその他厚生労働省令で定めるもののうち市町村が必要と認めたもの(以下この条において「計画作成対象障害者等」という。)が、都道府県知事が指定する相談支援事業を行う者(以下「指定相談支援事業者」という。)から当該指定に係る相談支援(第五条第十七項第二号に掲げる便宜の供与に限る。以下「指定相談支援」という。)を受けたときは、当該計画作成対象障害者等に対し、当該指定相談支援に要した費用について、サービス利用計画作成費を支給する。
2 サービス利用計画作成費の額は、指定相談支援に通常要する費用につき、厚生労働大臣が定める基準により算定した費用の額(その額が現に当該指定相談支援に要した費用の額を超えるときは、当該現に指定相談支援に要した費用の額)とする。
3 計画作成対象障害者等が指定相談支援事業者から指定相談支援を受けたときは、市町村は、当該計画作成対象障害者等が当該指定相談支援事業者に支払うべき当該指定相談支援に要した費用について、サービス利用計画作成費として当該計画作成対象障害者等に対し支給すべき額の限度において、当該計画作成対象障害者等に代わり、当該指定相談支援事業者に支払うことができる。
4 前項の規定による支払があったときは、計画作成対象障害者等に対しサービス利用計画作成費の支給があったものとみなす。
5 市町村は、指定相談支援事業者からサービス利用計画作成費の請求があったときは、第二項の厚生労働大臣が定める基準及び第四十五条第二項の厚生労働省令で定める指定相談支援の事業の運営に関する基準(指定相談支援の取扱いに関する部分に限る。)に照らして審査の上、支払うものとする。
6 市町村は、前項の規定による支払に関する事務を連合会に委託することができる。
7 前各項に定めるもののほか、サービス利用計画作成費の支給及び指定相談支援事業者のサービス利用計画作成費の請求に関し必要な事項は、厚生労働省令で定める。

(Jan.27,2007 稿成る)

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